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個別記事の管理2006-03-13 (Mon)
 学ぶとは教わることではない。対象物からその本質を自らの能力をもって
 学び取ることである。教師が伝授可能なのは知識だけで、そこから何ものかを
 創造する責任は、教師の教えを消化し、血肉と化してそれを使う弟子の側にある。
 <中略>特別な誰からも教わる必要はない。モーツァルトにしてみれば、
 イタリアで訪れるどの街にも、学ぶことが出来る材料は転がっていたのである。

 ~モーツァルト 天才の秘密(中野 雄/文春新書)~


 教師の最重要課題のひとつは、学業修了後、弟子がひとりで学ぶ癖と、
 ひとりで学ぶ方法を習得せしめることである。もうひとつは具体的なことを
 抽象的に思考する訓練を施すこと、即ち、出来事や事件を抽象思考に
 置き換える癖をつけることである。

 ~音楽の対話(丸山 眞男/文春新書)~



 今からしてみれば、???と思ってしまうような体験は小さい頃から
 ポツポツとありましたが自分自身、それほど気にしていませんでした。

 私にとって大きな転機となったのは、やはり10代の終わりのあの体験です。

 
 朝の通学途中の電車の中でした。

 私はドアのところに立って、本を読んでいました。その本は、
 タイムパラドックスに関する新書だったのですが、特にそういうものに
 興味があったわけではありませんでした。ただ「難しい本を読む」ということが、
 かっこいいなあ。。と思っていただけだったのです。

 そんなわけで、専門用語がバンバン飛び交うような、しかもそのテーマが、
 苦手な物理・科学方面の内容なんて、私に解るはずもなく、途中で頭がパンパンになって、
 本当にくらくらしてきました。ちょうど電車が川を渡っていたときで、
 朝日が反射してキラキラしていたのを覚えています。

 その時、意識がフッと飛びました。

 何もなく、自分の姿もなく、ただ自分が「いる」という感覚だけがあるその場所では、
 この世に存在する全てのことが一瞬で解ってしまいました。
 もちろん読んでいた本の内容も全部。。

 でも、当時の私には何の予備知識もなく、なんの前触れもなく、
 本当にいきなりの事だったので、急に怖くなったのです。

 このまま気が狂ってしまうのではないか。。というその思いが、私を現実に引き戻し、
 その不思議な感覚も消えてしまいました。…と同時に、解ったはずの本の内容も、
 すっかり忘れ、何が解ったのかさえ解らなくなりました。

 ただ「あっそうか!」と納得した時の感覚しか覚えていませんでした。

 とても長い時間、意識がどこかに飛んでいたような感じがしたのに、
 外を見ると相変わらず川の水に太陽の光が反射していたので、
 きっと普通の時間の感覚からすれば、一瞬の出来事だったのでしょう。。


 その体験で私の中に残ったものは

 
 「全てのもののもとはひとつ」

 ということでした。


 なぜかそう実感してしまって、あれ以来、私の中ではそれが揺るぎない真実となりました。


 あの体験は、私の旅の始まりだった。。今はそう感じています。。
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個別記事の管理2006-03-13 (Mon)
 平均して1年には13回満月があり、これは13が魔女の数であるもうひとつの理由だ。
 実際、これがこの数字の魔術的性質の本当の起源なのかもしれない。
 古代のペイガンの1ヶ月は、28日で、1年は13ヶ月であった。
 その合計は364日であり、太陽暦と合わせるには1日を加えなければならない。
 そのため、おとぎ話や伝説では頻繁に『1年と1日』という表現が使われる。
 それは時を数える古い方法の名残なのだ。

 ~魔女の聖典(ドリーン・ヴァリアンテ/国書刊行会)~


 
 今日は娘の誕生日です。「13」という数字は、今までよくないイメージで
 とられがちでしたが、最近ではすこしづつ見直されているようですね。


 インターネットを始めたのは、子育ても少し一段落した頃。。
 その当時ハマっていて、よくライヴ通いをしていたあるミュージシャンの
 サイトを観てみたいと思ったこと。。それがきっかけでした。

 そしてある日、青春時代に大好きだったミュージシャンで、でもすっかり
 忘れてしまっていた「中川勝彦」という人のサイトに辿りつきました。
 その人は、まだ30代前半で白血病で亡くなってしまいましたが。。。

 そのサイトのBBSで何人かの方々と知り合いましたが、その中でもいろいろな
 巡り合わせが重なって、実際にお会いする事にまでなった人とは、
 お互いびっくりするくらい共通点があって、波長があって。。
 「これは、勝ちゃんのお導きかしら??」なんて冗談でよく話していました。

 その人と毎日のようにメールでやりとりしていた頃、不思議な出来事が
 身の周りに頻繁に起こるようになり(例えば、勝彦さんに対して批判的なことを
 書いたメールが目の前で突然消えてしまったり、電話でふざけ半分に勝彦さんの
 愚痴を言ったりすると、必ず電話が切れてしまったり。。)
 だんだん「霊」というものの存在を強く「意識」するようになっていきました。

 もともと幽霊をみたりとか、金縛りにあったりとかいう体験は多かったものの、
 自分でも気のせいなのか本当なのかの区別がつけづらく、ずっと気のせいという事で
 済ましていました。でも、あの時のように立て続けに「気のせい」が続くと、
 きっと誰でも気になるようになりますよね。そして、気にすればするほど、
 そういう現象は頻繁に起こるようになるんです。。

 それと同時に、私のまわりに「妖精」が出現するようになりました(笑)
 …と言っても、もちろん妖精が本当に現れたわけではありません。
 妖精に関連したものばかりと次々と出会うようになっただけです。

 でもこれは何か意味があるのかもしれない。。と思い、いろいろ調べるうちに
 「ケルト」にぶつかりました。そしてさらに調べていくうちに、これは私がいつかみた、
 前世の物語と関連しているのではないか。。と思うようになったのです。

 それからは、ネットを使って必死に情報を漁り、ある時「アカシックレコード」
 というものの存在を知りました。その時急に、昔の「全てのもとはひとつ」を
 実感したあの体験を思いだし、これは、あの体験が一体なんだったのかを
 解く手がかりになるのではないか!!と、なんともいえない高揚感を
 感じたのを覚えています。。

 「知りたい」「解りたい」という探求心に一気に火がつきました。

 今思えば、全ての出来事は完全に繋がっていたんだなあ。。と。。
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個別記事の管理2006-03-17 (Fri)
 共時性を体験することが多くなるにつれ、肯定的な態度を保つことは
 ますます大切になる。これはいくら強調してもしすぎることはない。
 内なる神のエネルギーとつながり、自らの真実を発見し、常に自分にとって
 何が問題なのか心にとめるようになると、共時性の流れが加速され、
 解決するのも容易になってゆく。<中略>
 否定的な出来事の中にポジティブな意味を探すことは、いくら言っても
 言い足りないほど、重要なことである。

 ~聖なるヴィジョン(ジェームス・レッドフィールド/角川文庫)~

 

 ある人が「この世での経験や生活にリアリティを欠く感覚がある。」と
 おっしゃっていました。この方は、ご自分の生活がきわめて困窮し
 危機的状態であるのに、心が安らかだともおっしゃっていました。

 私は時々ふと、この世は「本当の私」が見ている夢なのではないか。。と
 思う事があります。でも、「夢の登場人物としての私」にとっては、
 今のこの世は現実です。。

 本当の私が創造(想像かな?)した夢の世界で起こる出来事は、
 どちらの私にとっても、とても意味があるものと感じるし、私はその意味を
 探しながら「今」を生きています。

 もし、この世が私の創造した夢の世界だとしたら。。

 いくらこの夢の世界の中を探しまわってみても、本当の私のいる場所。。
 つまり「この世界を夢として見ている私という存在」を見つけることは
 できないでしょう。。

 でも、一旦この私の存在に気づくと、時としてこの世に対して
 リアリティを欠いたりすることもあるかもしれません。またその私の位置から、
 「登場人物としての私」に起こっている出来事を見ることが出きるようになるので、
 この世界でどんなにたいへんな状況になっても、安らかでいられるのかもしれません。。

 「夢をみている本当の私」に視点をあわせれば、この世界の自分も、
 そして自分以外の誰かも、結局は自分が想像した同じ夢の中の登場人物。。
 目が覚めた時には、私の体験も、誰かの体験もそれぞれの思いも、
 すべてが私の中で起こる出来事だったことに気づく。。

 でも、「夢の登場人物としての私」の位置に視点を合わせ立ってみると、
 その私にとっては、ここが現実。。すべてが私と感じるどころか、
 自分と他人はどうしても別物にしか感じられないですよね。。

 でも、それは夢の登場人物なのだから。。
 言いかたをかえれば「人間」なのだから当たり前かな?とも思います。

 なので、この現実世界のシステムを、夢の世界の中だけの法則にのっとって
 把握したい。。という欲求も自然であるし、この世界の中で、もがく事も
 また楽しいかも。。なんて思いました。。。

 また、この幻想の世界の中に宗教や哲学、そして科学や物理などが存在するのも、
 決して無意味ではなく、それらをうまく利用することで、「夢を見ている私」の
 意識までも一緒に進化させることができるからなのかな。。。とも思うのです。

 そんなことをつらつらと考えていたら、もうひとりの私の位置に視点を合わせれば、
 心は余計なことで苦しまなくてすむようになるし、穏やかでいられるけれど、
 でもだからと言って、今のこの現実世界で起きる現象をただの夢物語として
 適当に扱ってもダメなのだなぁ。。なんて。。

 自分が創造(想像)した夢の世界を思いきり満喫し、目覚めた時
 「あ~楽しい夢だった。」と思えるようにするためにも。。

 明晰夢を見るときのように、夢のなかで夢と気づけば、その夢をうまく
 コントロールしていけるかもしれませんね。夢を創造する私も、登場人物の私も、
 同時に存在していて、それは同一人物であるけれど、別人で。。

 矛盾しているけど、矛盾していない。。
 なんだか解るような解らないような不思議な感じなのですが(汗)

 人間が、本来の自分の居場所を思い出し、なおかつ人間として自分の生を
 心からありがたく感じ、感謝して受け入れることができた時、
 世界は変わるかも。。なんて思います。

 あっ、もしかしたら夢を見ている私がいるところもまた、さらに高次元の私が
 見ている夢だったりして。。。頭グルグルしますね(笑)

 思うこと、徒然に。。
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個別記事の管理2006-03-18 (Sat)
 惑星グリッドとは惑星を包み込むエーテル結晶構造体であり、
 どんな生命種の意識をも支えることができます。お察しの通り、そうです。
 惑星グリッドは電磁的な要素によって3次元と結びついているのですが、
 各次元に適合する高次元要素をも持ち合わせているのです。
 科学はいずれ、世界のどんな種にもそれぞれのグリッドがあることを
 発見するでしょう。

 ~フラワー・オブ・ライフ(ドランヴァロ・メルキゼデク/ナチュラルスピリット)~

 

 最近オーラブームなのか、あちらこちらでオーラの話を聞きますね。
 私は、ジェームズ・レッドフィールドの「聖なる予言」という本を読んで、
 オーラに興味を持ち始め、見る練習をしていたらだんだん見えるようになりました。

 でも、私が見えるオーラは「この人はこの色」みたいな感じではないのです(汗)。
 同じ人でもいろいろな種類のオーラがあって、まばたきするごとに違う
 オーラが見えてしまったりします。まだまだ自分が見たい層のオーラに
 焦点を合わす事ができないみたいです。。

 体のすぐ近くに1~2mmくらいの幅で見える蛍光緑のオーラ
 (これは幅が広がったり、ちょっと青みがかったりします)、
 もう少し広がったところに薄い黄色のオーラ、チャンネルがかわると
 その薄い黄色のオーラと同じくらいの幅で、シャボン玉色のオーラが
 見えたりもします。
 あとは頭のてっぺんから天にむかってのびる白い棒みたいなもの。などなど。。。

 でもオーラって実は、肉体から発しているのではなくて、オーラ体の方が
 先にあってそれを鋳型にして肉体が作られているらしいです。。
 (本で読んだだけですが(汗)。。)

 ところで、私が最近チャンネルが合いやすいのが「アミアミのオーラ」です。

 これは金色というか、蛍光黄色?みたいな色の、蜘蛛の糸くらい細いスジでできた、
 蜂の巣みたいなオーラです。きれいな網の目に見えます。
 うまくチャンネルが合えば、色が濃くなるので見やすいのですが、
 そうでないときは線が細すぎて、例えばうしろが白い壁だったりすると、
 同化してしまいそうです。

 初めてこれが見えた時は、目のさっかくか何かかと思いましたが
 (網だったので(汗)。。)調べてみたらこれと同じオーラを見ている人も
 いる事が分かり、自分が変じゃなかったんだ。。と安心しました。
 そして、このオーラは人だけでなく、空間にも見えるのです。。

 101匹目のサルのお話、ご存知でしょうか??

 日本のある島の1匹のサルがおイモを洗って食べる事を発見し、
 それをお友達や家族に教え、教わったサルがまた自分のまわりのサルに教えて、
 それがどんどん広がり、おイモを洗って食べる事を覚えたサルが
 100匹を超えた時、今まで洗う事などしたこともなかった日本中の
 各地のサルが、ほとんど一斉におイモを洗うようになったという。。これと
 同じような事が実験で人間にも起こることがわかり、科学者達も、
 私達全員を直接結び付けているものが何かしら確実に存在する。。
 と思うようになったらしいです。

 この「何かしら確実に存在するもの」は、フラワー・オブ・ライフという
 本の中では「惑星グリッド」と呼ばれているみたいです。あとこれは
 先日聞いたばかりなのですが、遺伝子も親から子へ情報を渡すだけではなく、
 同種の遺伝子が量子レベルで伝達しあっているかもしれないという
 仮説もあるらしく。。

 やはり、人類種同士でなにかしらの情報伝達を行っているのかな?
 なんて思わされます。

 私は、この「アミアミ」が人間や空間、物質など全てに繋がっているように
 見えるので、もしやこれが「グリッド」??なんて最近思っています。
 私はグリッドよりも「遺伝子のネットワーク」と呼ぶのが好きなのですが(笑)

 今ではネットというものがあって、情報がまわりに広がるスピードが
 とても早くなりました。しかも、ここのようなブログも大流行りなので、
 今までは発信することが困難だった一般の人の意見ですら、簡単に
 発信できるようになり。。

 もし、遺伝子のネットワークが本当に存在し(私はあると思うのですが)、
 101匹目のサルのような現象が人間にも起こりうるとしたら。。
 私達の意識は、どういう方向に向けておけばいいのか。。

 それは「愛」だと思うのです。。

 なぜかと言うと。。とまだまだ書きたいことはたくさんなのですが、
 長くなリ過ぎてしまうので、続きはまた次回にしますね。。
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個別記事の管理2006-03-20 (Mon)
 「どんな種類の愛のことを言っているのですか?エロス?フィロス?
  それともアガペですか?」

 ~星の巡礼(パウロ・コエーリョ/角川文庫)~

 

 花を見ていると、安らぎますよね。私はキンギョ草が大好きなんです。
 あとはスイトピーとかパンジーみたいな花びらがフニャッ(笑)とした
 花が好きです。。

 なのに「愛」ときいて私が思い浮かべてしまうのは、なぜか「濃いピンクの薔薇」
 なのです。。

 なんでかなあ?なんていろいろ考えているうちに、いつしか「薔薇」も
 マイキーワードになり、この薔薇に関しては「香り」を大切に思うようになりました。

 
 先日、私達の意識を「愛」に向けることが大事。。と書きましたが、
 なんでそう思うのか。。というお話の前に、ちょっとこの「愛」について
 書いてみようかなと思います。

 
 実は、以前は「愛」とか「感謝」を簡単に口にする事が嫌いでした。
 それは、本来は素晴らしいものだけど、勘違いしている人が多すぎる。。
 といつも思っていました。

 だから、そういう言葉を連発して何かを説こうとするものに対して
 抵抗を感じる事がたくさんありました。

 でも、今では素直に「愛」は大切だ。。と思えるようになったし、
 「愛」について一生懸命解ろうと頑張っている人達を尊敬しています。
 でも。。無理したわけではないのです。。自然とそう変わったのです。

 
 以前、家の中を整理していたら、とても懐かしいものを見つけました。
 小説を書いてみたい!なんて思った時があって(照)そのネタのために、
 当時友人と交わした会話とか自分が思っていた事をノートにメモしていた
 事がありました。

 そのノートを見つけて読んでいたら、当時の自分にタイムスリップしたような
 不思議な感覚を体験しました。なんだか、忘れていた気持ちみたいなものを、
 とても鮮明に思い出して。。というかホント、当時に戻ったような感覚で。
 その頃の状況を再体験したような感じでした。

 
 当時感じていた情熱的な「愛」を感覚的に思い出した時、それは、
 今の私が漠然と感じている穏やかな「愛」とは形が全然違っていたことに
 気づきました。。

 どちらもきっと「愛」なのでしょうけど、でも。。。そうしたら今の私が
 まだまだ知らないような、もっと絶対的な愛があるのかも??なんて
 考えはじめたのです。

 なので、いつもの掲示板で「みなさんは愛をどう思われていますか?」と
 聞いてみました。

 
 ある人は嫌いなものは嫌いなままで。。。苦しみも痛みも、それを感じている
 その瞬間の自分を拒絶することが最大の苦しみなんだと。その方にとって
 「愛」とは、それがなんであれ、抱きしめることのできるこの瞬間の自分だと
 おっしゃっていました。

 私は、うんうん。。とうなづいて聞いていました。
 自分の気持ちを無理矢理押し殺して、自分を犠牲にして誰かの為にと。。
 そこに苦痛を伴うものは、私も何かが違うような気がしていました。
 そして、もっと悲しいのは、愛に溢れた自分になれない。。と自分を責めている人を
 見ることです。。と私は言いました。

 
 こんな会話を続けていたら、また違うある人がこんなお話をされました。
 マザーテレサは、道端で倒れている、もう何日も生きられない浮浪者を連れ帰って、
 全身をきれいに拭きながら、耳元でこう囁きます「あなたは一人ぼっちではありません。
 私は貴方を愛しています…」。そして、キリストやガンジーの行いも例にとって、
 「そこには好きも嫌いもありません。」とおっしゃいました。

 すると、次の方が「マザーテレサさんに共鳴します。『すべての者の内に
 キリストを見る。奉仕する。』というようなことだった思います。。
 『自分』は『自分以外のすべての他者』によって浮き彫りになる。
 他者という鏡を介してしか自分を知ることはできない。」というような
 お話をされました。

 
 こういった会話がなされている数日間のあいだ、私はずっと「愛」ってなんだろう?
 と考えつづけていました。そしてある日。。。

 全てのものと一体になったようなあの時の「感覚」…あれは「愛」だと
 突然気づいたのです。それが「愛」だと気づくと同時に、「概念」としては
 もうよく知られているその愛を、体験からにせよ、知識からにせよ、
 自分の中で疑いようのない「感覚」にしていくことが大切なんだ。。と
 思うようになりました。

 
 「愛の感覚を知る」…私のような体験、それをウイングメーカーは
 「キッカケ」だと言ってます。また「聖なる予言」という本では、
 最初のそれは「神様からの贈り物」だと言っています。そしてそのあとは、
 自分でそれを作り出していく事を学ばなければならないと書いてありました。

 私もそう思います。愛の感覚を知れば、それは心から穏やかに、幸せに
 暮らせるようになる為の鍵になるはずだからです。。。私のような体験が
 全てだということではないです。方法はたくさんあるし、それは人によって
 様々な形があると思うけれど、でも、目的は「愛の感覚を知る」ことなのだと思います。

 
 できるだけ多くの人達にこの「愛の感覚」を知ってほしい。。と
 ずっと思っていました。

 でも、この頃は「愛」の重要性を説くものがたくさん出てきているし、
 日々学び、気づきを得ている人達がとても増えてきているような気がしますよね。。
 私の願いは、全ての人が愛を感じながら、心から安らぎを感じながら
 生活できる世界の実現なんです。。誰も悲しい思いをしたり、傷ついたり
 しないですむ世界がいつか実現してほしいと願っていました。。

 ところが最近ふと、「愛溢れる世界の実現は私達次第で絶対可能だ!!」と
 強く確信してしまったのです。


 やっと先日のお話に繋げられそうなのですが、また長くなったので、
 次回にしますね(汗)ごめんなさい。。
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個別記事の管理2006-03-20 (Mon)
 意識はエネルギーの一形態として、非時間と非空間にその起源があります。
 <中略>意識は物質化すると特定の空間に局所化されます。わかりやすく言えば、
 意識は人間や動物、植物などの物理的な特徴を持った物質になります。

 創造のプロセスを信じるということです。創造とは量子物質が非時間と非空間から、
 私達の時間と空間の物質の世界に移動することです。多分奇妙に聞こえるでしょうが、
 これはデクノロジーよりも信念に密接に関係しています。

 ~ウイングメーカー(shima訳/VOICE)~



 精神世界では、この現実を創りだしているのは自分だという事が
 よく言われていますよね。そしてそれを精神的な意味で捉えられている方が
 多いと思います。それは確かにその通りなのですが。。では、想いが実際に
 物質を創りだすと聞いたらどう思われるでしょうか。。

 
 私達の意識とは何かって考えた事はありますか?量子の世界を少し覗いてみると、
 もしかして素粒子の本当の正体は、私達の意識なの?なんて気がしてくること
 ありませんか??量子力学の世界を本当に理解してる人なんて、本当はいない。。
 なんて言っていた人もいましたが(笑)また、いしきは「意志・気」と
 書きますなんて言っている人もいて、うまいこと言うな~なんて思ったことも。

 
 自分の経験や、書物などから様々なことを考えているうちに物質というものは、
 私達が今、現実と感じているこの次元の中で、意識が形として顕れている
 ものなのだと信じるようになりました。

 違う世界がいくつもあり、この物質界というのはどちらかというと、
 意識が低いレベルの形で顕れているものなのだと信じるようになりました。

 低いレベルという事はそれよりも高いレベルの世界が存在するというわけで、
 まずそちらが変わると、それに連動するように、この物質界の在り方も、
 変わっていくのではないかと思うのです。ヒーリングでオーラ体を癒せば、
 肉体の傷が癒されていくのと同じ原理だと思います。

 
 私がこの想いに辿りつくまでに、インターネットがかなり影響しました。
 世界にある様々な書物、情報を探すのも、ネットで簡単になりました。
 なので今まで普通に生活していたら気づけなかったかもしれない知識などと
 出会う確率は、断然増えました。

 また一方で、巷では情報が溢れかえっていて、何が正しくて何が誤りなのか、
 見分けるのもとても難しくなってきているように感じます。
 なので、ある意味少々危機感を感じるのも確かです。

 ただ、全体を見渡した時、人に「愛」の重要性を説くもの、今までの常識を
 根本から覆すような意識の変革を促すものが増えてきているような気もします。
 ネットの普及による、いい意味での知識の流出。。人類の今までの長い歩みを
 振りかえり、こういった場所まで辿りついた事に感慨深いものを感じるし、
 今、この場に存在できた事に感謝さえしたくなるのです。

 
 例えば、「愛の感覚」を知った人がどんどん増えていき、ある一定数を越えると、
 それは遺伝子のネットワークを通して全人類に発信される。その人達の数が
 臨界点を突破した時、「愛の感覚」は全ての人類にとって疑う事のない
 「常識」になっていくのではないかと。。

 もしかしたら、インターネットによる情報開示と遺伝子のネットワークによって、
 私達人類の常識は、ある日、一気に変化するかもしれません。

 
 また、人類の意識の常識が変われば、先ほどお話した次元の違う世界にも
 影響が出るのではないかと思うのです。それは、意識を変化させる人が
 多ければ多いほど、その作用は大きくなると思いますし、それはきっと、
 私達が現実だと思っているこの世界にも必ず影響を及ぼすと思うのです。

 
 例えば、誰かがふと思いついたことがあったとして、普通は隣の人に伝え、
 それをまた隣の人に伝え。。それが広がるのに時間がかかると思うのですが、
 ネットであればその速度はとても速いです。

 そして、その情報を得る人が増える速度が速ければ速いほど、臨界点突破に
 かかる時間も少ないと思うのです。。そして、突破するとそれは遺伝子の
 ネットワークによって全人類に発信されるというしくみかな??と。。

 私達の常識は、101匹目のサルのように、或る瞬間からあっという間に
 書き換えられるのではないかと思っています。その書きかえられた時の、
 その時の意識で創られるだろう新たな現実世界を、平和な世界に出来るように、
 私達の意識は「愛」の方向に向けておかなければ。。と、最近切に願ってしまうのです。。

 
 情報(概念)と経験。。そのふたつが自身の中で相互作用する事によって、
 変容が加速されていくような気がしました。そして、とても大切なことは、
 それらから得た知識を「実際の生活に融合させること」です。

 叡智を日常の生活に取りいれることで私達ひとりひとりがまず、
 今の現実世界で心底幸せを感じられるようになる事が重要だと思うのです。。
 その安らぎの意識が、私達の未来の世界の形を決める鍵になるのです。

 
 この世界に存在するものは全て、私達の意識によって創られているのだと
 思っています。過去も未来もそして現在の世界も、「今」の私達の意識が
 創っているものなのではないかと思っています。

 
 今、ここにいる私達が、どういう世界を創造したいのかというヴィジョンを、
 自分の中にはっきりと確立する事がとても重要な気がしています。
 自分の意識が世界を創造するのであれば、その為に自分はどう在れば
 いいのかということを。。

 
 私達は今、私達自身の意識が創りあげたこの現実の法則に縛られて、
 そこから出ることができないでいるような気がします。この悪循環から
 抜け出す為に必要なことは何だと思いますか?

 
 それは、「信じる心」、そして「知りたいと願う強い意志」だと思っています。。
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個別記事の管理2006-03-21 (Tue)
 人は誰でもその人その人の学び方がある。彼のやり方は僕と同じではなく
 僕のやり方は、彼と同じではない。でも僕達はふたりとも自分の運命を
 研究しているのだ。だからそのことで僕は彼を尊敬している。

 ~アルケミスト 夢を旅した少年(パウロ・コエーリョ/角川文庫)~



 人が何かを知った時、それを誰かに伝えたいと思うのは、それは人の
 サガなのかなぁ?なんて思うことがあります。。今、世の中にスピリチュアルな
 メッセージが増えているのは、目覚めかけている人が増えているからかもしれませんね。。

 
 でも時々、思います。そのメッセージはどんな気持ちから発信されて
 いるのかなぁ?って。。それが「純粋に全体の幸せを願う心」からなのか。。
 それとも「個人のエゴを満たすため」からなのか。。

 多分、よほど気をつけていないと、はじめは純粋だった気持ちがエゴに
 負けてしまうこともあるかもしれませんね。そうなった時、本当に大切なことを
 人間のエゴが隠してしまうかもしれません。。

 
 私は子供に何か伝えたい時は、まずはなるべく「子供と同じ視点に立つ」
 ように心がけています。。この子と同じ歳で、同じ環境で、同じ立場で
 その場に遭遇した場合、私だったらどう感じるのかな?ということを
 まず考えるようにしています。そう考えた時、不思議と子供の気持ちと
 同化できるような気がします。。

 
 子供の気持ちに同化した時、親の私に「何々は何々である。」と断定されると、
 子供の私はどんな風に感じるのか。。とシミュレーションしてみます。
 子供の私は親の私に断定されると正直言って、混乱します。。
 なので、いつも子供に大切なことを伝えたい時は
 「私だったらこう思うかもしれない。。」と言うように気をつけるように
 なりました。。

 
 そしてそのあとに、「でも、あなたの心の中にいる、もうひとりの自分の
 言っていることもきいてごらん。。」と言ってみるんです。「もうひとりの
 あなたは、きっとどうすればいいのか知っているし、必ず教えてくれると
 思うよ。。そしてそれは絶対に間違っていないから。。素直な気持ちで
 聞いてごらん。。」と。。

 
 子供が自分と向き合っている間、しばらく待ってみて注意深く子供の顔を
 見ています。表情がパッと変わったときに「何て言っていた?」と聞いてみると、
 私の想像していたとおりの答えを子供は返してくれます。。

 そして、私はその答えから「真実は自分の中にある」という事を
 実感させてもらえるのです。。


 「真実は自分の中にある」


 それを実感した時はじめて、自分の中の真実を覆い隠していたヴェールを
 はがせることができるのかもしれませんね。。
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個別記事の管理2006-03-25 (Sat)
 私があなたの顔を見るとき、あなたが私の半身であることを知る。
 私があなたの美を見るとき、あなたが私の半身であることを知る。

 ~WM chamber3 第1詩 [Half Mine]~



 まだ小さい子供だった頃、星の図鑑で「レイオルト(もしくはレイオル?)」
 という名前の星を見つけました。

 それをある人の名前につけました。

 
 先日の話の中の「Lyrica」同様、この「レイ」という響きも
 (私はよく「レイちゃん」なんて呼んだりするのですが。。)とても好きで、
 これについてもいろいろ調べた事があるのですが、「レイ」は「ray」にすると、
 「光線・放射線・熱線・光明・ひらめき」などがあるということを知りました。

 最初はそうかぁ、光かぁ。。なんて思っていたのですが。。
 そのあともっとピンとくる意味を見つけてしまいました。

 
 「ley」にすると、イギリスの古語でやはり「光」また「牧草地」という
 意味もあるらしいのです。牧草地と言えば浮かぶのは、イギリスや
 アイルランドの草原の鮮やかな緑。。

 「あぁ。。またケルト地方が。。」なんて気にさせられるのでした(笑)。
 そしてこの「ley」はレイ・ラインのレイでもあるのです。。

 
 でも、大人になってから本やネットで調べても、どうしてもこの星を
 見つけられなくて???なのです。。

 
 レイオルトという星が見つからないのは、もしかしたら、あれは子供の頃に
 見た明晰夢を実際に起こった事と勘違いしているからなのかな?と思ったりも
 しましたが、でもそれだとなんとなくしっくりこなくて。。

 どこからそんな名前を知り得たんだろう??といろいろ思い巡らした末、
 今私自身でそうなんだろうなぁ。と納得しているのは、私の「半分」が
 レイオルトと名乗って存在しているのだろう。。という事なのです。

 
 ある時、レイオルトは自分の意識が創りあげた自分のもうひとつの姿?。。
 と思いました。。でも、自分で創ったとは言え、彼の存在を心から信じて、
 絶対にいると疑わなかったので(…というか、いるとしか思えなかったのですが)
 彼は「彼」として実際にこの宇宙に「存在」し、活動し始めたのだと思っています。

 そう思ったとき、今までレイオルトは光の存在なの?ハイアーセルフなの?
 なんて思っていた疑問が一気に飛んでしまいました。

 
 彼は、私の半身なのだと。。

 
 今、私が心の旅をしているのも、もしかするとレイオルトと私の統合を
 果たす為なのかもしれません。ふたりがひとりになった時、扉は開くのではないかと。。

 
 レイちゃんは、実在しているとは言えもともとは私(正しくは私の意識)なので、
 彼を観察していると自分がわかっておもしろいです。

 もし私がもっと昔の人だったら、「介さんという名前の武士が私を
 守ってくれているんです。」なんて言っていたかもしれませんね(笑)。。。


 でも、これは普通に生活しているうえでは誰にも言えない話です。。
 飛びすぎてて(苦笑)私だけの秘密にしています。。
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個別記事の管理2006-03-26 (Sun)
 青春時代に大好きだった歌手の中川勝彦さん。。

 昔、大晦日の時代劇ドラマ「白虎隊」で新撰組の沖田総司役で
 出演されていました。若くして病に倒れてしまう美青年。。
 白血病でお亡くなりになった勝彦さんご自身の運命も、それに重なってしまいます。。

 
 タレントの中川翔子ちゃんは、実は彼の娘さんです。。

 縁あって彼女や彼女のお母様とメールでお付合いさせて頂いていた事があり、
 翔子ちゃんのデビュー前にお会いした事もありました。本当に可愛かったです。
 彼女は、本当はとても繊細な子なのです。。最近は全然お話する機会も
 なくなってしまいましたが、翔子ちゃん、頑張ってね。。

 
 翔子ちゃん親子を通して知り合ったお友達とは、趣味が似ていて、
 勝彦さん以外に好きだったのがGRASS VALLYというバンドということ、
 そしてそのライヴ通いをしていたところまで一緒でした。

 GRASS VALLYはもうずっと以前に解散していましたが、ヴォーカルだった
 出口雅之さんという人が、な、な、なんと「ディナーショー」(大汗)を
 やるというニュースを聞き、そのお友達と行ってみることに。。

 「あの人がディナーショーだなんて。。」と半分ゲンナリした気持ちも
 正直あったのですが、間近で昔の歌が聴ける!握手だ!ツーショット写真だ!と
 すっかり盛り上がってしまった私は、次のディナーショーに向けて
 ダイエットなんかはじめてみたり(←バカです(汗)。。)

 
 そして翌年の年末。。子供達を実家に預け、はりきって用意した
 ドレスに身をつつみ、美容室まで行っちゃって(笑って下さい(大汗)。。)
 主人の冷めた白い目を背中に感じつつ、さあ、行くぞ!!と思っていた矢先に、
 実家の母から電話が。。。


 その電話で母は、数年前からうつ病を患っていた親戚の叔母が亡くなった。。
 と告げました。夜中に突然いなくなって、朝、近所の川で発見されたと。。

 
 今でも胸が痛むのは、この話を聞いた瞬間、私の脳裏に浮かんだのが
 『ディナーショーはどうしよう』だったことです。。

 
 叔母とは、私が結婚してからもう長年会っていなかったので、
 うつ病だとは聞いていましたが、そうなってからの叔母がどんな感じだったのか
 全然わからなくて。。

 なので、私自身、なんとなく軽い気持ちでいました。。というか日々の生活の中で、
 叔母のことを真剣に考えたことがありませんでした。。

 まさかそこまで深刻だったなんて。。

 お通夜や葬儀の間、叔母が可哀想という気持ちと、私がどうこうできた
 という話ではないと分かってはいながら、何の力にもなってあげられ
 なかったことが申し訳なく、悔しく。。涙が止まりませんでした。

 
 それから1年くらいたった頃でしょうか。。私も「うつ」というものを
 体験しました。今思い出そうとしても、何が原因だったのか、そして何が
 きっかけでうつではなくなったのか。。というのがよく解らないのですが。。

 その状態というのを、身をもって体験することになりました。。

 
 続きはまた次回に。。。
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個別記事の管理2006-03-27 (Mon)
 黙示録とは歴史の始まりのかなたにある。まったき言語以前の状態が、
 再び歴史の終局に出現することである。そこにはもはや時間が消滅して
 過去、現在、未来を包含した空間だけしか存在しなくなる瞬間であろう。
 それはゲーテが「ファウスト」のなかで述べた、あの暗い「母なる国」のように。

 「一切の時間性を排除した空間の連続としての動き」これがレクイエムの
 底辺に流れている思いである。つまり、時間と共に変化していく動きではなく、
 ただ内部から空間的にメタモルフォーゼしてゆく動き。

 ~ルジマトフとの出会い[ルジマトフ公演パンフレットより抜粋](笠井叡)~



 私はバレエが大好きなのですが、ファルフ・ルジマトフというロシアのダンサーが、
 世界に先駆けて、日本で新しい作品を披露するという事で、意気揚々と
 その舞台を観に行ったことがありました。

 それはモーツァルトのレクイエムに日本の舞踏家である笠井叡さんという方が
 振付けを行なった創作でした。

 
 でも…私がそこで観たものは見事なまでの「狂気の世界」でした。
 真っ暗な舞台で一筋のスポットライトを浴びて地を這うように踊る。。
 そして途中、笠井さんの作った詩の朗読が、ルジマトフによる
 ロシア語の低い声で、入る。。

 
 「時のクレヴァンスの中…息の結晶 光の風に………
  見なれた風景 あなたの肉であるかのよう…祈れ」

 
 私は彼の動きが止まり、音楽が消え、観客が拍手をしていても
 全く動けずにいました。

 休憩時間に入っても目の焦点が定まらないような、足が地についていないような。。
 フワフワした変な感じでした。

 モーツァルトが天から感じたものを譜面におこし、演奏家がその魂を感じて演奏し、
 振付師がそれを受け取り目に見える形に置き換え、ダンサーはそこから
 感じ取ったものを自分の肉体で表現しようとする。

 私はその根底に流れる魂の叫びを、自分の魂の部分で感じ取った気がして、
 しばらく呆然自失でした。

 
 舞踊は、身体を限界まで使って心に感じるものをいかに表現しようかと悩み、
 自分を極限まで追い詰めていくうちに気付くと崖っ淵に立ってしまう事があって。

 その高い高い崖っ淵に立ったとき、神の世界を垣間見てしまうことが
 あるような気がしています。そこで上を見るか下を見るかで、その後の
 舞踊人生がかわっていくのです。

 ルジマトフはきっと、もう何度も神の世界を垣間見て、そこに到達しようと
 上を向き、手をのばしているダンサーだと私は感じます。

 
 それはなぜかと言うと、私が彼の踊りから感じた「狂気」は、以前の
 全ては一つを感じた時に一緒に感じた恐怖に、似ていたような気がして
 ならないからです。

 表現が難しいのですが、あの感覚の真ん中にすっぽり入ってしまっている時は、
 本当に穏やかでホッとするような、「あぁ、帰ってきたんだ。」という気が
 するのですが(色で言えば虹色)、でもその一歩手前に、真っ暗な黒の部分を
 感じる場所がありました。

 怖かったのです。。
 
 私の場合は「気が狂ってしまう!」と感じましたが、今冷静にあの体験を
 分析してみると、あれは多分、「個」としての自分を失うことに対する
 恐怖だったように感じます。。

 そして、あの舞台で私が感じたものは、どちらかというとその恐怖の部分に
 近かったような気がするのです。。

 
 例えばバレエ界では、栄光を極め、伝説にまでなったニジンスキーという
 ダンサーは、最終的には精神を病んでしまいました。それから有名な話では
 ゴッホが耳を切ってしまったり、アインシュタインはADHD
 (注意欠格多動障害)だった?とか、小説家で自殺する人がたくさんいたり。。。

 いろいろあげるとキリがないのですが、何かを極めようとした人達に
 こういった話が多いのはなぜ?と自分の体験を含めて考えるうちに、
 準備ができないうちに知ってしまうことには危険も伴うのかも?
 なんて考えるようになりました。

 
 私がうつの状態になっていた時は、本当に毎日毎日「死」を考えていました。
 とても苦しいので病院に行きたいのですが、どこかで病院に行ったら逆に
 ひどくなりそう。。と思う気持ちがあって結局は行けませんでした。

 でも多分、病院に行ったら間違いなく「うつ病ですね。はい、お薬です。」
 という事になっていただろうなぁ。。と思います。。

 
 ただ、苦しんでいる自分を冷静に眺めているもうひとりの自分の存在に気づき、
 そちらの意識のほうに同化してしまうことが日に日に多くなってきました。

 そのもうひとりの私は常に冷静だし、穏やかだし、なんでも解かっているので、
 自分はまったくおかしくないと感じるし、逆にまわりが幻想だと知ってしまって、
 人としての私に戻るのがおっくうになってしまうのです。

 精神が研ぎ澄まされているようで、普段よりも意識はクリアです。
 俗世間が馬鹿馬鹿しくさえ思えてきて。。でも、どこかでやはりこの日常は
 とても大事なんだ。と感じて。。もうひとりの自分と同化することが、
 快感でもあり恐怖でもあり。。疲れた。。このジレンマから開放されたい、
 そのために「死にたい」。。。と思ってしまうのです。。

 
 自分がうつの状態にあった時の事を今振り返ってみると、あの状態は
 崖っ淵に立っているのと同じなのかもしれないという気がしてきます。

 きっとその時立っている場所はあの黒い位置で、でもちょっと先に虹色の
 場所があることに気づいているのだろうなぁ。。と思います。
 そして、その黒い場所は、魂の成長のためには避けては通れない道かもしれない。。
 なんて今では思うのです。。

 そうは言っても、今だからこんな事を言えるのであって、あの場所に
 立っていた時はやっぱり苦しかったです。私の場合、私をこの世界に
 繋ぎとめていたのは「子供達」でした。

 
 これは経験からなので、個人的な思いなのですが。。
 もし、ゴールというものがあったとしたら、私はその時は絶対に「よかった!」と
 思えると信じているのです。

 なので、自分の身に起こることは全て、最終的には「よかった」と思うために
 それは起きているんだ。。と信じています。
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個別記事の管理2006-03-31 (Fri)
 「感謝を通じた宇宙との関係」の原則は、第一に普遍的実体を支える「鏡」の上に、
 それへの感謝を通じて自己イメージを意識的にデザインすることである。
 <中略>感謝とは、個人は至高であること、そして個人のソース・コードを活性化し、
 すべての形態と知性の発現を通じて表現している普遍的実体によって
 支えられているという感覚である。

 ~ウイングメーカー(WingMarkersLLC・shima訳/VOICE)~


 
 以前読んだ本におもしろい事が書かれていました。

 「ある時、本屋に行ったら棚から一冊の本が落ちてきた。その本には、
  私がまさに今必要としていることが書かれていた。」…と。

 そして、「今の自分に必要なことが書かれた本は光っていて、遠くからでもすぐ
 目につくものだ。」とも書かれていました。。

 私も、目的の本を購入するつもりで書店に行ったものの、なぜか違う本に目がいき、
 そちらを衝動買いしてしまうことが多々あり、でも、その本の中には
 今の自分に重要なメッセージがあった。。ということを、多く経験しているので、
 これはとても納得なのです。。

 
 昨日、仕事帰りに子供達と外で待合わせをしました。時間が少し余っていたので、
 それまで書店をブラブラしていました。今日はどんな本と出会うのだろう。。
 なんて思いながら目についた本は中島義道という方の「私の嫌いな10の人びと」
 という本でした。一瞬「えっ?」と思いましたが、手にとって目次を読んでみました。


 
私の嫌いな10の人びと (新潮文庫)私の嫌いな10の人びと (新潮文庫)
(2008/08/28)
中島 義道

商品詳細を見る



 1 笑顔の絶えない人
 2 常に感謝の気持ちを忘れない人
 3 みんなの喜ぶ顔が見たい人
 4 いつも前向きに生きている人
 5 自分の仕事に「誇り」をもっている人
 6 「けじめ」を大切にする人
 7 喧嘩が起こるとすぐ止めようとする人
 8 物事をはっきり言わない人
 9 「おれ、バカだから」と言う人
 10 「わが人生に悔いはない」と思っている人

 
 なんだか、目次をみただけで悲しい気分になってきたのでそれ以上
 読まずに本を戻しました。なんでこれがメッセージなのかな??
 今日はハズレかな?と思いながら。。

 
 そのあと、子供達の買い物に付き合っている間、ヒマだったし、疲れたので、
 お店のイスに座ってボーッとしていました。すると「魔女の宅急便」に
 出てくる松任谷由実さんの歌が流れてきました。

 知っている曲だし、今まで何度も聴いていたので、何の気なしに
 聴いていたのですが、昨日は最後の歌詞がやたら耳に残りました。

 
 「目に映るすべてのことはメッセージ」

 
 …ということで、夜、いろいろ思い巡らしていました。

 この本の著者があげている10人の人びと。。これは、一般的に
 「善人」と思われるような人達。。

 でも、この方がなぜ、こういう人達が嫌いだとおっしゃるのか。。というのも、
 なんとなく解かるんです。。以前は自分もそうだったから。。

 
 たしかに、良い事をしていると思いながら、自分のエゴを人に押し付けているだけ。。
 っていうこともあると思います。「親切の押し売り」。。

 私もそういう部分が鼻についてしかたのない事がありました。

 ただ、最近ではそういった行為も、それを行っている人にとっては
 正しい事であり、自分のエゴという部分にたとえ気付いていなくても、
 その根底には「愛」が流れていると思うようになりました。

 
 そして、そういう人達を嫌いだ。。と思う人たちは、「愛」を説く人たちに
 嫌悪感を抱いている自分のその気持ちの中に、同じようなエゴが隠されている事に気づく、
 ちょっと手前なのかと。。

 そして、そういう人達は、実はとても傷ついた経験がある、感受性豊かな
 人達なのかもしれないなぁ。。なんて思います。

 
 エゴをなくすという事は、私は、無理だと思っています。
 (神秘体験などでは可能だと思いますが。。)

 自我をなくすという事は、「人間である意味」をなくしてしまうと思っているので、
 それは人間が人間であるために必要だと感じています。

 でも、「無我の境地」に辿りつくために、一生懸命努力する事。。
 これはとても尊い行為だとも思います。。

 
 誰かの思いや、行動を見て自分がどう思うか、どう感じるか。。
 それは人それぞれで、そしてその時、自分が感じた事を注意深く観察してみると、
 そこに今の自分が浮き彫りになってきます。。

 そして、どんな自分が現れたとしても、それは正しくもなく、間違いでもなく、
 それをありのまま受け入れることが大事なのだと思います。

 
 例えば、私がこうして話している事も、受ける人によって感じるものは
 様々だと思うのです。でも、ひとりひとりがそれぞれ感じられた事が、
 全部「真実」であって、それがたとえ私の思いと違っていても、それはそれ。。です。。

 その違いを「そうじゃない、私はそういう意味で言っているんじゃない。」と
 私が言った時点で、そこには私のエゴがあるわけですものね。。

 
 目に映るすべてのことはメッセージ。。

 この歌詞の前には、歌のタイトルでもある「やさしさにつつまれたなら」
 という言葉がついているのですよね。。
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個別記事の管理2006-04-04 (Tue)
 ブログという舞台の上で、知的成長の過程を公開することで、
 その人を取り巻く個と個の信頼関係が築かれていくのである。

 ~ウェブ進化論(梅田望夫・ちくま新書)~


 
 私はどちらかというと、感覚に頼ってしまうことが多い方で、本を読んでいても
 小難しい言いまわしで書かれていたりすると、途中でどうでもよくなって
 きてしまうことが多々あります。。

 その本を途中で投げ出すか、最後まで読みきるかを判断するのもほとんど
 「感覚」で、その感覚がGOサインを出したものについては、難しくて頭では
 さっぱり理解できないものでも、自分の中の「重要物リスト」にしまって
 おいたりします。。

 
 先日の記事でも書いた「ウェブ進化論」という本もそんな中のひとつで、
 IT関連の話などちんぷんかんぷんなのにも関わらず、なぜか
 「これは、ただものではない。。」という匂いがして(笑)。。

 ただ、同じ個所を何度か繰り返して読まないと、頭に入ってこないので(泣)
 未だに全部読み終わってなかったりしますが(汗)、今日読んだところに
 とても共感してしまうことが書かれていたので、ちょこっと書いておきます。。


  ブログは個にとっての大いなる知的成長の場であるということだ。
  <中略>実際ブログを書くという行為は、恐ろしい勢いで本人を
  成長させる。<中略>ブログを通じて自分が学習した最大のことは、
  『自分がお金に変換できない情報やアイデアは、溜め込むことよりも
  無料放出することで(無形の)大きな利益を得られる』ということに
  尽きると思う。



 私も、ブログは始めてまだ間もないですが、掲示板に自分が感じた事を
 書きこみ、それにレスを頂いてまた考える。。誰かの思いを聞いて自分が
 感じた事をレスする。。そんなことを繰り返すうちに、上記のようなことを
 本当に実感しました。

 
 ただ、ネットにいる人は、自分も含めてみんなヴァーチャル人間ですし、
 掲示板の中でどんなに通じ合っても、実際に会って話したら、アレ??って
 事もあると思います(苦笑)

 でもその逆で、ネットの中で語っているその自分こそ、実は自分の中の
 真の自分の「今の姿」を映し出しているのかなぁ?なんて思ったりもします。

 
 それぞれの世代によって物事の考え方や価値観が、表面的には違うように見えても、
 いろいろな方のブログを見回してみると、深い深~い部分では通じ合っているのを
 感じます。現実世界では、そこまで語り合えるチャンスも少ないから
 解かりづらいのかもしれませんよね。。

 
 世界中の人達と深い部分で語り合うことが出きるようになったら、
 世界は平和になるかもしれません。。

 最初はヴァーチャル空間だけでも、それがそのうち広がって、こちら側の世界でも
 通じ合えるかな?

 そうだといいですよね。。
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個別記事の管理2006-04-10 (Mon)
 最初にわたしたちは、物質的な自己に死ぬ。すなわち、脱自己同一化する。
 次に身体的な自己との排他的な自己同一化(身体だけを自分のすべてと
 思い込むこと)を死に、次に心的な自己に死に、最後に魂として死ぬ。
 この最後の死を禅では「大死」という。

 ~存在することのシンプルな感覚(ケン・ウィルバー/春秋社)~



 「FIRE THE GRID」のお話はご存知でしょうか。。

 このお話は今、ネット上のあちらこちらで見るようになりましたね。

 私も「グリニッジ標準時間の2007年7月17日11時11分の祈り」に
 参加予定でいます。そして、ここでこの祈りについて私の思うところを
 書いてみようかな。。と思います。。

 
 以前もお話した10代の頃の不思議な体験から、私の中ではどうしても
 私達の本当の姿、または最終ゴールは「感覚」(または意識?)だと
 思ってしまうのです。

 ただ、自分がいるという感じがするだけ。。

 何もなく、でも全てが自分の中にある、全てが自分である。。
 でも、そこには何もない、自分の姿も何も。。

 うまく表現できませんが、その感覚に、最終的には戻っていく。。

 これが私の中の真実なのです。。

 
 なので、私にとってはこの物質社会のみならず、高次元の世界も、
 光の存在も全ての法則も。。何もかもが本当はその感覚が見ている幻想。。
 夢。。だと。。どうしてもそう思ってしまうのです。

 
 本当は全て幻想。。
 でも高次元の世界も、光の存在も、法則も、実際に存在する事も真実。。
 とも思っています。。

 聞いてらっしゃる方は、わけがわからない。。と思われるかもしれませんが、
 それらは、今、人間としてここにいる私達にとっては実際に存在しているからです。。

 
 この世の中には不思議なことがたくさんあるし、信じられるものや
 信じられないもの、様々なアセンションの方法。。。多くのスピリチュアルな
 探求方法。。本当にたくさんあります。。

 でも正直なところ、私は最後はあの感覚に戻っていくのだから、わざわざ
 自分を苦めるような方法を選ぶ事はないな。。なんて思ったりします。。

 そして、あの感覚がただ感じているだけのこの世界の中では、きっと本当は
 人の想い次第でどうにでもできてしまうのではないか。。とそう感じています。。

 乱暴な表現をすれば、全て思いこみで成り立っている世界だと思っているのです
 (↑これも思いこみ。。)

 
 感覚だけになる前に、せっかくだからこの世界を思いきり満喫しておきたい。
 人間として存在できる間に毎日を丁寧に生きて、自分にお土産をたくさん
 持って戻りたい。。

 そのために例えば何かの実践方法も、自分が楽しんで出きるものを見つけて、
 人間として様々な神秘体験などを楽しんでおきたい。。と思っています。

 
 この「FIRE THE GRID」のお話自体、正直申しますと実際に起こったことか
 どうかということは私にとっては「?」なところです(苦笑)

 このお話の裏に、何かの意図を感じます。。

 私は実は、けっこうひねくれたところがあるので、ついそう見てしまったり
 することがあります。


 ただ、これがもし本当の話でなかったとしても、「祈る」ということが、
 しかも多くの人が同時に一緒に祈るという行為が、どんな結果を生み出すのか
 ということには、とっても興味があります。

 私がかすかに感じるそのなんらかの「意図」にも、きっと愛が流れている。。
 そう感じています。そして、今の私にとっては現実であるこの世界が、
 心安らげる平和な世界になって欲しいということは、私にとって確かな
 願いではあるので、その理由だけでも試してみる価値は充分あるなぁ。。
 と思いました。

 
 言葉は悪いかもしれませんが、世界の、たくさんの人を動因したこの大きな実験。。。

 今、人間として生きてここに存在している私に、参加しない理由はないなぁ。。。
 なんて思います。。

 あぁ。。でも、こんな風に思っていては本当はダメなのかなぁ。。

 「心から信じること」。。これが大事ですものね。

 
 …う~~ん。。これは。。「こんな風に思っている人もいる。。」
 程度に聞き流して下さいね。。
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個別記事の管理2006-04-25 (Tue)
 今日細い通りを歩いていると私の横スレスレにものすごく大きな
 トラックがやって来ました。

 そのトラックは、ちょうど私の横で信号待ちで止まったのですが、
 見るからに荷物、積みすぎなのでは??という感じだし、そして本当に
 大きかったし、道はせまくて。。

 その時、急に「もし今、この荷物が倒れてきたら、私は絶対に死ぬなぁ。。」
 なんて思ってしまったのです。

 
 今読んでいるウィルバーは、奥様をガンで亡くされていますが、
 彼女は最後まで「死」に対して抵抗することはなくて。。
 それをそのまま穏やかに受け入れているようでした。
 (私が読んでいるのは抜粋なので、もしかしたら少し違うのかもしれませんが。。)

 スピリチュアルな世界をいろいろさ迷っていると、「死」というものは、
 「終わりではない」と言うことが当たり前のように語られていますし、
 実はこの世界は本物ではなくて、あの世のほうが本物だ。。という考えから、
 死を推奨するような団体まであったりします。

 私は、死を推奨するようなやり方は好きではないのですが、でも、
 もし私がウィルバーの奥様のような立場になったら、きっと彼女と
 同じようなことを思うかもしれない。。なんて思っていたのです。

 
 でも、今日「死ぬかもしれない」と想像した時、しかも普通の想像よりも
 よりリアルに想像できてしまったとき、ものすごく怖かったです。

 心臓はドキドキするし、怖いから早くトラックから離れたいのに足が
 もつれる感じで早く歩けなくて。。

 どこかで何てバカバカしいことを考えているんだろう。。とは思っているのですが、
 でも、本当に怖くて。。

 やっと通りぬけてホッとしたのも束の間、信号がかわりまたうしろから
 そのトラックがやってきて私を追い越していったのですが、すっかり
 行ってしまうまでは、なんだか手に汗にぎる。。という感じでした。

 
 本当に、自分の想像の世界だけでこんなに怖い思いをして馬鹿みたいだなぁ。。
 と思ったのですが、でも、その時「死」を超えるということは、
 そんな簡単なことではないな。。と思いました。

 ウィルバーの奥様と同じ立場に立ったとき、実際は私はどんな心境になるのか。。
 想像しきれなくなりました。

 
 以前、不思議な体験をした時、「故郷に戻った」という思いと一緒に
 とても強い「恐怖」がありました。あの恐怖は今思うときっと、
 思い出すことに対する恐怖だったと思います。

 少しづつ少しづつ思い出していくのならばいいけれど、一度に全部思い出すことは、
 きっと怖いです。精神を壊しかねないと思います。

 もし私が神様だったら、せっかく記憶を消して旅に出たのに、
 全部思い出してしまったらこの旅がつまらなくなってしまう。。

 だから、すっかり忘れてしまうのはイヤだけれど、全部思い出したくはない。。
 きっとそう思うのではないかと。。

 
 この世ではきっと、思い出そうとする力に対して、思い出させないように
 しようとする力があって、一気に思い出しそうになった時、思い出させないように
 しようとする力が大きく強く働いて。。

 それが「恐怖」というものを生み出させるような気がしています。

 そして、その怖い。。という思いは人間が「死に対して抱いている恐怖」に
 近いような気がします。。

 
 なんだか、この世は本当は素晴らしいところなんだ。。と心から実感していても、
 時には疲れてしまうこともあって、そうするとあの世のほうが楽なのではないか。。
 なんて考えてしまうこともたまにあるけれど、でも、実際に死に直面したら
 (私の場合は想像だけですが。。)やっぱり生きていたい。。と思ってしまう
 のかもしれませんね。


 例えば、世界の終わりがやってきて、どうしてももうダメ。。という時には、
 きっと落ちついて穏やかに死を受け入れることができるだろう。。
 なんて考えていたのですが。。

 ん~~。なんだか解からなくなってきました(苦笑)
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個別記事の管理2006-04-26 (Wed)
 例のケン・ウィルバーの本を読んでいたらまたこんな事が書かれていました。
 (これはコーエンさんの言葉からの引用みたいですが。。)

 
 精神的な「師」を選ぶ時は慎重に選ぶように。ナイス・ガイ的な優しい師匠もいれば、
 荒くれ者の師匠もいる。ストレスを軽くしてエゴを慰めてくれる優しい師匠ならば
 素敵な道を歩む事ができるが、荒くれ者の師匠の場合、居心地が悪いどころではない、
 魂が消えるほど怯える。。。と。

 
 でも、覚醒へ早く辿りつきたいのであれば、荒くれ者師匠を選ぶ方がいいらしいです。。

 
 以前、ウイングメーカーのフォーラムでちょっとした出来事がありました。

 そこに「私はマスター」と名乗る方が現れて、いろいろな知識を教えて
 下さったのですが、ひとりのお仲間の方に対し、とても厳しいことを
 おっしゃられたのです。

 私は以前からずっと疑問に思っていた事があって、それは、私が読んだ本
 (多分実話に基づいたお話)の中に出てくる師匠さんはみな、弟子が間違った
 事をするとものすごい勢いでこれでもか!というほど、怒る事に対してでした。

 それこそもう、弟子が立ち直れなくなってしまうのではないかと思ってしまうくらい
 激しく弟子を罵倒します。。

 私は、弟子に試練を与えて覚醒を早めようとする気持ちも解からなくは
 ないのですが、ではそれで落ちこぼれてしまった人はどうするのだろう。。
 それで、はい、あなたはダメですね。。と切ってしまっていいのだろうか。。
 といつも疑問に思っていました。

 
 なので、そこでマスターと名乗る方が厳しい態度をとられた時、実際に
 私の目の前でそういう事が起こっているような気がして、私は思わずその方に
 抗議してしまったのです。。

 実を言いますと、その方が、なんらかの意図を持って、わざと「私はマスターです」
 とおっしゃっているのならいいのですが、そうでなかったらそれこそ、
 その方の今後の成長が。。。なんて余計なことを思ってしまったのと、
 あとは、私自身がとても打たれ弱いので、もしそんな公の場所であんな厳しい事を
 言われたのが自分であったら、しばらくは実生活でも立ち直れないくらい傷つく。。

 それにもしかしたら言われるべきは自分だったのかもしれない。。なんて思ったら
 ついつい。。(実際に言われた方は、私の心配などおよびでないくらい
 懐の深い方だったのですけれど^^;)

 
 自分が混乱したくない、自分が傷つきたくない。。
 そういう自分のその思いを他の人にまで転写してしまい、もしかしたら
 その人にとってはとても貴重なものだったのかもしれないものを、私の
 そういったエゴで潰してしまったのではないか。。

 なんて今頃になって思うのです。

 私は、誰も傷ついてほしくないし、みんなが心安らかでいてほしい。。
 変容するのならば、出来るだけ多くの人と一緒に。。と思いつつ、
 そう思うのは結局は自分のためなのかもしれないな。。なんて。。思いました。

 
 感謝が出来ない。。と言って嘆き、自分を責める人を見ると、私は
 「その感謝が出来ない状態からしか学べない何かがあるはずなのだから。。」と
 思ってしまいます。

 でも、もしかすると「感謝をしなさい!感謝が出来ないなんて愚か者だ!」
 と言った方が、実はその人のためになるのかなぁ。。なんて、
 今更ながらいろいろ考えています。

 
 これもケン・ウィルバーの本に書かれていたのですが、ある程度まで達した
 マスターも、個としての香りは残すそうです。。

 私がもしいつか変容できたら一体どんな香りを残すのか。。

 そしてその香りがまわりの人にどんな影響を与えてしまうのか。。。

 なんていろいろ考えてしまいました。。


 私はみんなと一緒に迷いながら、一緒に成長していきたい。。とは思いますが、
 前を見て歩いている人の足をひっぱらないようにしなくては。。。と、
 なんだか久々に。。少しへこみ気味です。。
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個別記事の管理2006-04-28 (Fri)
 マスターとは何か。

 ・・・という事もとても定義しづらいですね。


 本当に究極的な事を言ってしまえば、人間である以上はどんなに知り尽くしても、
 マスターとは言えないですしね。。

 「今」の私がマスターだと思うのは。。私の個人的な意見ですが。。。
 本物のマスターはきっと普通の人です。

 全てを極めてそれを自分のものにしている人は、「生きること」そのものを
 きっと大切にするので、弟子もとらずに地味~に暮らしているような気がします。

 でもそんな人に関わった人達はきっと、ただ一緒にいるだけで
 覚醒してしまうかもしれなくて、なので本人も周りの人も知らず知らずのうちに
 師匠と弟子の関係を築いていることはあるかもしれません。

 
 荒くれ者師匠についたほうが覚醒は早いそうですが、そんなにボロボロに
 なってまで得なくてはならないものって何?なんて私は思ってしまいます。

 ただ「在る」という感覚に戻るだけなのにって。。。

 それならば今を大事に生きつつ、楽しみながらゆっくりと進めばいい。
 もし悟りを得られなかったとしても、今ここにいるという事、それ以上に
 素晴らしい事ってあるの?と。。

 スピリチュアルな体験を求めるのに苦しむ必要はないし、楽しめばいいのです。
 
 でもこれはあくまでも、私の個人的な思いです。。

 
 どういう道を選ぶかは、その人がどう在りたいのか。。によって
 人それぞれなのだろうなぁ。。なんて思います。

 
 心から大事な人が石につまづいて倒れた時、あなたならどうしますか?


 走りよって抱き起こしますか?

 いつも石に注意していれば、そこに石があることに気付いてころばなくなるよ。。
 と教えますか?

 そんな石につまづくなんて!と叱りますか?

 それともその人が自分で立ち上がるまで黙って見ていますか?
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個別記事の管理2006-04-29 (Sat)
 今日、ハッ!としたことがありました。

 先日からしつこく「荒くれ者マスター」について書いていましたが、
 私のモヤモヤの原因のひとつは、マスターが魂が消えてしまいそうになるほど、
 弟子を怯えさせるというその「やり方」についてだったのですが。。。

 
 娘と一緒に電車に乗る時でした。扉が開いて中の人が全員降りるまでは、
 邪魔にならないように脇によけていなさいね。。といつもいつも
 言っているのですが、うちの娘はちょっとボーッとしたところがあって、
 よく真ん中に立って降りる人の邪魔になってしまうことがあります。

 今日も何度も注意したにもかかわらず、次の乗換でまた同じ事を
 繰り返しているので、私もプチッ!!(苦笑)


 「いいかげんにしなさい!!他の人の迷惑になるって言ってるのが
  どうしてわからないの!!本当にもうあなたって子はいつも
  ボーッとしてるんだから!!」

 
 人を傷つけたくないと思っていたはずなのに。。
 私も思いっきりやってるなぁ。。なんて思ってしまいました。
 
 しかも最愛の娘に対して。。

 
 私の怒りように(苦笑)怯えた娘はそれ以来、きっちり脇によける
 ようになりました。

 その時、なるほどぉ。。と思ってしまったのです。
 荒くれ者マスターの気持ちが少し解かりました(笑)
 ウィルバーが荒くれ者マスターについた方が覚醒が早いというのも、なんとなく。。

 
 そして以前、ウイングメーカーの掲示板で自分が書いたことを思い出しました。


 「WMは。。私達にとって『親』のような存在かもしれません。

  子供である私達は、WMからのヒントやきっかけを頼りに、自分なりに
  あちらこちらを探索しています。ある時はとんでもない方へ行ってしまったり、
  ある時は諦めそうになったり。。

  WMからしてみたら、きっとハラハラドキドキの連続かもしれませんが、
  いつか必ず、私達が自分達の力でWMの位置までたどりつく事を信じ、
  そして両手を広げて私達を待っていてくれる。。
  WMには、そんな温かさと安らぎを感じます。

  なので、私達は安心して探求を続けられるのです。。

  この世に、マスターと呼ばれる方はきっとたくさんいて、そしてWMと
  同じようにハラハラドキドキされているかもしれません。でも、どうか
  温かい目で私達の事を見守っていてくださいね。。」

 
 なんだか、自分で書いておいて見失いそうになっていました。。

 
 子育ては。。現場の人にしか解からないことがいろいろあります。。

 例えば自分も同じようなことをしていながら、子供をキツクしかっている親、
 放置している親を見ると、そのダメだと思う部分だけが強調されて
 こちらに映ってしまったりします。

 そして、そういう場面を外から見ているほうは気分が悪くなったりしますが。。
 でも、どんな時でもやっぱり親は子供の事を愛しているのだと思うのです。。
 そう信じたいです。。

 
 荒くれ者マスターについて理解出来ないと思っていましたが、自分も同じなのだ
 ということに今日気づきました。…といっても、もちろん私がマスターだと
 言ってるわけではないですが(苦笑)

 ずっとモヤモヤしていたものがすっきり解消された感じです。

 
 そして、娘は。。私にキツク注意されたあとは、きちんと直してくれました。。
 本当は優しく言っているうちに直してくれないかなぁ。。というのが
 親の願望ですが(苦笑)

 でも、荒くれ者マスターに対して反発していた私より、よっぽど立派かも。。
 なんて思ってしまいました。

 
 ところで、ここ数日、私の身の回りの流れが急速に変わってきているのを
 感じていましたが、今日またちょっとした急展開があってびっくりしていました。

 それと同時に今までの疑問のひとつが解消されて、なんだか不思議な日でした。。。
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個別記事の管理2006-05-01 (Mon)
 シェルドレイク「形態形成場論」。。自然界には、電気・磁気・重力以外の
 未知の力の場が存在していて、これを「形態形成場」または「形の場」と呼び、
 ある形や活動が広がるとその形や活動パターンが宇宙に刻印され、「形の場」の
 共鳴作用によって同じような形や行動が起こりやすくなる。
 また、生物の進化も「形の場」の共鳴作用が関与している。。と。

 なんだか遺伝子のネットワークに近いと思うのですが。。。

 ある本には、「例えば、魚がもっと泳ぎやすいひれが欲しいと思うと、
 その思いが次の子孫にひれを創り出す。」と書かれていました。

 意識が形態形成場に何かしらの影響を及ぼすのでしょうか?

 これってきっと、量子の世界と何か関係しているような気がします。

 そうそう、量子力学がこの世に登場したのと、冥王星の発見はだいたい
 同じ時期だそうですね。


 今ではほとんどの人に真実だと認められている科学的な発見も、
 ひとつの仮説から始まって、それは、それまでの世の中の常識からは
 思いきりはずれていたため(いわゆるトンデモ的なため)、知識人達の間では
 ほとんど相手にされなかったのに、その後(へたをすると本人が死んで
 しまったあととか)に証拠が発見され、それが正しかった事が証明される。。
 という事を繰り返してきましたよね。

 なんとなくですが、誰かが仮説を立て、それに賛同する人も何人かいて、
 そしてその賛同した人の数がある数に達すると、その根拠となるものが、
 実際にこの世界に発生するのではないかなんて思ったのです。

 実は仮説が先にあって、証拠はあとから発生したものなのに、
 あたかもずっと昔からそれはこの世に存在していたかのように私達に映る。。。

 
 例えば、この生命の進化のお話も、ダーウィンの時代の人間の意識には
 存在しなかった概念。。シェルドレイクの形態形成場論のような。。
 (これは今でもトンデモ扱いされているみたいですが。。)

 そういう仮説が、ある時、世に出て、そして広がって、賛同する人が
 一定数に達した時、それは遥か過去の生物の進化にまで影響を
 与えるのではないか?と。。

 「今、その出来事が過去に実際に起こる」つまり、私達の時間の感覚からみたら、
 歴史上の事実になるのではないかと。。

 今が過去を変える事もあるのかもしれないと思いました。

 そして、もちろんそれは未来に対しても言えるのではと思います。
 過去も未来もそして現在の世界も、「今」の私達の意識が創っている
 ものなのではないかと。。ちょっと飛ばしすぎかなぁ?と思いつつ。。

 
 なので、今までの既存の宗教や思想、科学や神話、歴史。。

 そういった中からのみ真実を探そうとしても結局、今までの私達の創り出してきた
 「概念」の世界にはまるだけ?なんて思いがふつふつと。。

 それだけではいつまでたっても、今まで長い間に人類が創りあげてきてしまった、
 意識の牢獄からは出ることはできないような気がします。

 もちろん、既存そのものが間違いだとは言いません。

 それらが創り出した世界が、今の現実での真実なのだから。。
 でも、それだけにとらわれるのは。。と思うのです。

 
 今、ここにいる私達が、どういう世界を創造したいのかというヴィジョンを、
 自分の中にはっきりと確立する事がとても重要な気がしています。
 自分の意識が世界を創造するのであれば、その為に自分はどう在ればいいのか。。

 
 今、私が必要だと思うことはやはり、外からの情報で正しい(私が正しいと
 思うのは、全体が平和に向かうような、根底に愛が流れていると感じる情報です)
 知識を増やすとともに、意識の世界を実際に「体験」してみてしまう事だと思いました。

 そのふたつが自身の中で相互作用する事によって、変化が加速されていくような
 気がしました。

 そうして少しづつでも前進していく事が出来たら、いつか遺伝子のネットワークを
 通して人類全体に広がっていき、私達の望む、愛に溢れる世界の創造に
 繋がっていってくれたら。。という願いもあって。。

 そして、それらから得たものを、実際の生活に融合させ、私達ひとりひとりがまず、
 今の現実世界で心底幸せだと感じられるようになる事が重要だと思います。。

 その安らぎの意識が、私達の未来の世界の形を決める鍵なのでは?と感じています。

 
 …と長々と語ってしまいましたが、これは全部、「現在」の私の個人的な思いですので、
 適当に聞き流して下さい。。

 これから先、どう変わっていくかは自分でも解からないのですし。。

 とりあえずは、自分の感覚を信じ、なるべく批判判断しないように。。とは
 心がけるようにしています。

 否定してしまうことは、もしかするとせっかくのチャンスを逃してしまう
 かもしれない。。

 ついもったいない。。なんて主婦は思ってしまうのです(笑)
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個別記事の管理2006-05-20 (Sat)
 どれほど待っても、ふたたび(救世主が)ヨーロッパに現れることはない。
 それは、アジアに現れるであろう。
 同盟のひとつが『偉大なるヘルメス』から生じる。
 彼は、東洋の全ての王たちを超えるであろう。」

          『諸世紀』(百詩編)第10章75より


 あと。。


 20年(20世紀)続いた、月(西洋)の支配が過ぎ去り、
 別のもの(新たな救世主)が、7000年(21世紀初頭)に
 王国(ユートピア)を築くであろう。
 太陽の如き存在が、光を取り戻すとき、
 全ては満たされ、我が予言も終わりを告げるのだ。」

                『諸世紀』第1章48より



 「アジアの極東の日の国に、ヘルメスの繁栄が訪れるであろう。」

 とも、ノストラダムスは言ってるそうです。。

 ヘルメス関係で調べものしていた時に見つけたサイトに載っていました。。

 西洋の源泉を辿っていくと、なぜかヘルメスにぶつかることが多いですが、
 そもそもヘルメスに行き当たるようにしてあることこそ、情報操作だ。。

 ・・・なんていう人もいますよね。。。

 う~~ん。。。
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個別記事の管理2006-05-22 (Mon)
 私の将来の夢は、アイルランドか英国の田舎で自然に囲まれてゆっくり生活することです。
 かなわなかったら。。まぁそれはそれなのですが、憧れです。。

 ガーデニングをしたり、ケーキをやいたり、動物を放し飼いで飼ってみたり(笑)
 あとは、小物作りとか。。とにかくのんびり日々の生活そのものを楽しみたいです。

 
 いろいろ探求しているのも、正直言うと「趣味」のようなもので、
 魔女になりたいのも、魔法が使えたら面白そうだから。。。
 もちろん、みんなで幸せになる魔法です(笑)

 なので、何かを得ることに対してあまり必死感(言葉変かな?)はないんです。

 
 生きていることそのものを大切にしたい。。
 毎日毎日を丁寧に生きたいです。

 以前は「感謝」という言葉があまり好きではなかったのに、今ではこうして
 この世に存在していることに自然と感謝する自分がいて。。

 それは、なんだかくすぐったいけれど、それができるようになったことは
 ちょっぴり嬉しかったりします。。

 
 生きている。。ということはそれだけで本当に素晴らしいことなんですよね。
 なんだか、こうよくわからないけれど、嬉しさみたいな、高揚感があふれてきて、
 わけもなく、誰にともなく「ありがとう!」って大声で叫びたくなったりします。

 
 絵本作家のターシャ・テゥーダというおばあちゃんがいるのですが、
 その人の生活にとても憧れています。。ああいう風に、自然にシンプルに
 生活してみたい。。


 
思うとおりに歩めばいいのよ (ターシャ・テューダーの言葉)思うとおりに歩めばいいのよ (ターシャ・テューダーの言葉)
(2002/10)
ターシャ テューダー

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 禅の十牛図ってありますよね。


 十牛図の話


 牛(悟り)を探しに旅に出て、最後は俗世間に戻ってくるんです。。
 この俗世間に戻ってくるところを「入てん垂手」と言って、
 これは人によって解釈が違うのですが。。。

 悟りを得て聖者になった人が、まわりの人々を幸せにするために
 俗世間におりる。。。と解釈する人もいます。

 でも、私は、本当に悟った人は「普通の人」になる。。そう思っているので、
 この解釈ではしっくりこないんです。上で紹介したサイトにも書いてありますが、
 「アホーになること」。。が私にとっての正解です。。

 
 ターシャ・テゥーダおばあちゃんからは、「入てん垂手」に
 到達したっぽい匂いがしませんか。。。
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