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個別記事の管理2006-04-02 (Sun)
 いろいろな方のブログを見てまわっていましたら、あちらこちらで
 桜の写真を見ることができました。今日あたりはとても暖かかったですし。。。
 春ですねぇ。。

 
 桜といえば、ちょっとした不思議なお話をひとつ。。


 私が小学校に入学した時、記念樹として桜の苗木をもらったのですが、
 小さくて細い枝のようだったので、何も考えずにポンッと庭にさしておいたら
 グングン伸びて、いつしかとっても立派な桜の木になりました。

 
 毎年春になると綺麗な花を満開に咲かせるので、子供の頃はお庭でお花見が
 定番になっていました。そういえば、いつだったか秋に毛虫がゾロゾロ
 降りてきたりして(汗)それなりに大変なこともありましたが、でも、
 毎年咲く綺麗な花に、いつもホッと癒されていました。。。

 
 でも、その木はあまりに立派になりすぎて、枝が電線にとどいてしまったり、
 根が張りすぎて庭の土が盛り上がってしまったりと、いろいろ不都合が出てきました。
 桜の木は切ると咲かなくなってしまうそうなので、家族でどうしようかぁ。。
 といいつつ、花があまりに綺麗なので、何年かはそのままにしていました。

 
 私が高校を卒業したての頃だったと思いますが、そろそろ限界かも。。
 と思い始めた私達は、例年のようにお庭でお花見をしながら
 「この桜が見れるのも今年で最後かねぇ。。」「寂しいねぇ。。」
 「でも困ったねぇ。。」なんて、その桜の木の下で話していたのです。

 でも。。それでもやっぱり切るのは忍びなく、結局は切れずに次の年の
 桜の季節がまたやってきました。

 ところが、あれだけ毎年立派な花を咲かせていた桜が、その年は全く
 咲かなかったのです。。

 つぼみも全然ふくらまずに「今年は遅いね。」なんて言っていたのですが、
 まわりの桜が散ってしまった頃になっても芽吹く気配は全然なくて。。。
 それで、私達はとうとうその桜の木を切る決心をしました。。

 
 あの桜の木はきっと、私達の話を聞いていたんだろうね。。って
 母とも話していました。毎年毎年、休むことなく綺麗な花を咲かせていた
 あの桜の木は、私達が困っているのを察して、自ら花を咲かせることを
 やめてくれたのだと思っています。。

 
 今にして思えば、切るのはもう1年待ってあげればよかったような気もします。。
 桜の気持ちを思うと、今でも少し切なかったりして。。。人の意識によって。。。
 とか難しく考えることもできますが、私はこの出来事に関してはなんとなく、
 「桜の木の精霊」がいたんだ。。って考えていたいです。。

 
 桜の季節になると、毎年あの出来事を思い出します。。

 「ありがとう」と「ごめんね」をあの桜さんに会って伝えたいなぁ。。なんて。
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個別記事の管理2006-04-04 (Tue)
 ブログという舞台の上で、知的成長の過程を公開することで、
 その人を取り巻く個と個の信頼関係が築かれていくのである。

 ~ウェブ進化論(梅田望夫・ちくま新書)~


 
 私はどちらかというと、感覚に頼ってしまうことが多い方で、本を読んでいても
 小難しい言いまわしで書かれていたりすると、途中でどうでもよくなって
 きてしまうことが多々あります。。

 その本を途中で投げ出すか、最後まで読みきるかを判断するのもほとんど
 「感覚」で、その感覚がGOサインを出したものについては、難しくて頭では
 さっぱり理解できないものでも、自分の中の「重要物リスト」にしまって
 おいたりします。。

 
 先日の記事でも書いた「ウェブ進化論」という本もそんな中のひとつで、
 IT関連の話などちんぷんかんぷんなのにも関わらず、なぜか
 「これは、ただものではない。。」という匂いがして(笑)。。

 ただ、同じ個所を何度か繰り返して読まないと、頭に入ってこないので(泣)
 未だに全部読み終わってなかったりしますが(汗)、今日読んだところに
 とても共感してしまうことが書かれていたので、ちょこっと書いておきます。。


  ブログは個にとっての大いなる知的成長の場であるということだ。
  <中略>実際ブログを書くという行為は、恐ろしい勢いで本人を
  成長させる。<中略>ブログを通じて自分が学習した最大のことは、
  『自分がお金に変換できない情報やアイデアは、溜め込むことよりも
  無料放出することで(無形の)大きな利益を得られる』ということに
  尽きると思う。



 私も、ブログは始めてまだ間もないですが、掲示板に自分が感じた事を
 書きこみ、それにレスを頂いてまた考える。。誰かの思いを聞いて自分が
 感じた事をレスする。。そんなことを繰り返すうちに、上記のようなことを
 本当に実感しました。

 
 ただ、ネットにいる人は、自分も含めてみんなヴァーチャル人間ですし、
 掲示板の中でどんなに通じ合っても、実際に会って話したら、アレ??って
 事もあると思います(苦笑)

 でもその逆で、ネットの中で語っているその自分こそ、実は自分の中の
 真の自分の「今の姿」を映し出しているのかなぁ?なんて思ったりもします。

 
 それぞれの世代によって物事の考え方や価値観が、表面的には違うように見えても、
 いろいろな方のブログを見回してみると、深い深~い部分では通じ合っているのを
 感じます。現実世界では、そこまで語り合えるチャンスも少ないから
 解かりづらいのかもしれませんよね。。

 
 世界中の人達と深い部分で語り合うことが出きるようになったら、
 世界は平和になるかもしれません。。

 最初はヴァーチャル空間だけでも、それがそのうち広がって、こちら側の世界でも
 通じ合えるかな?

 そうだといいですよね。。
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個別記事の管理2006-04-09 (Sun)
 音楽って、いいですよね。。

 私の父が無類の音楽好きだったので、小さい頃から我が家では
 ありとあらゆるジャンルの音楽が常に流れていました。
 その影響で私も音楽は大好きなのです。


 音。。というものにこだわるようになってから、響き。。とか振動を
 意識して音楽を聴くことが多いのですが、最近気になっているのは
 「ハープ」の響き、そしてケルトの「アイリッシュ・フィドル」のあの
 小刻みにキコキコいう音です。

 あとはオルゴールとかハンドベルの響きです。。
 特にこのふたつの波動?は、集中して聴いていると、ちょっと意識が
 トリップしそうになります。。。

 
 オルゴールのもととなったのは、ドルイド僧が変性意識になるために
 儀式などで使っていた「ドルイド・ベル」というものなのだそうです。

 これは今ではオルゴールボールとして出まわっていますよね。。

 でも、なるほど。。飛びそうになるかも。。となんとなく納得です。

 シャーマンは、たしかトリップするために太鼓を使っていたって
 聞いたこともありますし、この確実に意識に作用する周波数を持つ音を
 正確に発見できればいいのですけどね。。
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個別記事の管理2006-04-10 (Mon)
 最初にわたしたちは、物質的な自己に死ぬ。すなわち、脱自己同一化する。
 次に身体的な自己との排他的な自己同一化(身体だけを自分のすべてと
 思い込むこと)を死に、次に心的な自己に死に、最後に魂として死ぬ。
 この最後の死を禅では「大死」という。

 ~存在することのシンプルな感覚(ケン・ウィルバー/春秋社)~



 「FIRE THE GRID」のお話はご存知でしょうか。。

 このお話は今、ネット上のあちらこちらで見るようになりましたね。

 私も「グリニッジ標準時間の2007年7月17日11時11分の祈り」に
 参加予定でいます。そして、ここでこの祈りについて私の思うところを
 書いてみようかな。。と思います。。

 
 以前もお話した10代の頃の不思議な体験から、私の中ではどうしても
 私達の本当の姿、または最終ゴールは「感覚」(または意識?)だと
 思ってしまうのです。

 ただ、自分がいるという感じがするだけ。。

 何もなく、でも全てが自分の中にある、全てが自分である。。
 でも、そこには何もない、自分の姿も何も。。

 うまく表現できませんが、その感覚に、最終的には戻っていく。。

 これが私の中の真実なのです。。

 
 なので、私にとってはこの物質社会のみならず、高次元の世界も、
 光の存在も全ての法則も。。何もかもが本当はその感覚が見ている幻想。。
 夢。。だと。。どうしてもそう思ってしまうのです。

 
 本当は全て幻想。。
 でも高次元の世界も、光の存在も、法則も、実際に存在する事も真実。。
 とも思っています。。

 聞いてらっしゃる方は、わけがわからない。。と思われるかもしれませんが、
 それらは、今、人間としてここにいる私達にとっては実際に存在しているからです。。

 
 この世の中には不思議なことがたくさんあるし、信じられるものや
 信じられないもの、様々なアセンションの方法。。。多くのスピリチュアルな
 探求方法。。本当にたくさんあります。。

 でも正直なところ、私は最後はあの感覚に戻っていくのだから、わざわざ
 自分を苦めるような方法を選ぶ事はないな。。なんて思ったりします。。

 そして、あの感覚がただ感じているだけのこの世界の中では、きっと本当は
 人の想い次第でどうにでもできてしまうのではないか。。とそう感じています。。

 乱暴な表現をすれば、全て思いこみで成り立っている世界だと思っているのです
 (↑これも思いこみ。。)

 
 感覚だけになる前に、せっかくだからこの世界を思いきり満喫しておきたい。
 人間として存在できる間に毎日を丁寧に生きて、自分にお土産をたくさん
 持って戻りたい。。

 そのために例えば何かの実践方法も、自分が楽しんで出きるものを見つけて、
 人間として様々な神秘体験などを楽しんでおきたい。。と思っています。

 
 この「FIRE THE GRID」のお話自体、正直申しますと実際に起こったことか
 どうかということは私にとっては「?」なところです(苦笑)

 このお話の裏に、何かの意図を感じます。。

 私は実は、けっこうひねくれたところがあるので、ついそう見てしまったり
 することがあります。


 ただ、これがもし本当の話でなかったとしても、「祈る」ということが、
 しかも多くの人が同時に一緒に祈るという行為が、どんな結果を生み出すのか
 ということには、とっても興味があります。

 私がかすかに感じるそのなんらかの「意図」にも、きっと愛が流れている。。
 そう感じています。そして、今の私にとっては現実であるこの世界が、
 心安らげる平和な世界になって欲しいということは、私にとって確かな
 願いではあるので、その理由だけでも試してみる価値は充分あるなぁ。。
 と思いました。

 
 言葉は悪いかもしれませんが、世界の、たくさんの人を動因したこの大きな実験。。。

 今、人間として生きてここに存在している私に、参加しない理由はないなぁ。。。
 なんて思います。。

 あぁ。。でも、こんな風に思っていては本当はダメなのかなぁ。。

 「心から信じること」。。これが大事ですものね。

 
 …う~~ん。。これは。。「こんな風に思っている人もいる。。」
 程度に聞き流して下さいね。。
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個別記事の管理2006-04-11 (Tue)
 先日お友達から飲みに行こう~と誘われ、久しぶりに会ってきました。

 彼女は娘が幼稚園の頃に知り合ったママ友達です。
 ママ同士の世界はけっこうシビアですが(苦笑)彼女とは不思議と
 学生時代の友達のように、なんでも話せたりします。。

 さすがにスピリチュアル系不思議体験談とかは出来ませんでしたが、
 幽霊体験談くらいは話したりしていました。

 
 その彼女が先日会った時、「どう?最近また何か見た?」なんて聞いてくるので、
 実は最近新たに変なものが見えるようになったんだ。。と言いました。

 退かれるかしら?と思いながらもオーラが見えるようになった事を話すと
 彼女は目をキラキラさせながら「えっ!!私も!!」なんて言うのです。

 そしてしばらく二人でオーラを確認しあいながら(まわりからみたらさぞ
 怪しい光景だったと思います。。)そのあと彼女は「実はね、私は体脱が
 出きるようになったの♪」なんて突然言い出したのです。。

 だいたい、「体脱」なんて言葉を使う事自体、「通だ。。」なんて
 思ってしまった私。。

 今までこういった話題は普段は出来ない。。なんて思っていたのに、
 こんな身近にこんな人がいたなんて。。ととってもびっくりしました。

 どうやら彼女はある日をきっかけに不思議な能力が開花してしまったみたいで、
 今では好きな時に体脱出きる。。なんて言っていました。

 
 最近ではロバート・モンローのヘミシンクなどで随分メジャーになった体外離脱。。。

 事故などのショックで体脱してしまうのとは違って、自分で意識的に
 体脱するというのは、このヘミシンクに限らず、例えばチベット密教などでは
 「ニアデス(仮想的な死または臨死)」という表現を使って、昔から
 行われていたようです。

 やり方としては長時間独自のマントラを唱えて変性意識状態になり、
 その状態で色のイメージング法を使いアストラルボディを強化するそうです。

 アストラルボディが活性化されると肉体を離れ、それ自体で活動が
 可能になるそうです。。

 
 体外離脱して見る世界は、自分の部屋とかご近所、旅行で行った場所、
 外国、はたまた宇宙や神の世界などなど様々な世界に行けるそうですが、
 意識界というものはどうやらその本人の意識がかなり強く影響するようで、
 その人の心を映し出す鏡のような世界みたいですね。。

 なので、私の個人的な意見としては、あまり先入観を持たずに行きたい!
 見てみたい!と思う世界をイメージするといいんじゃないのかなぁ。。
 なんて思っています。

 
 夢を見ていると自覚できていて、その夢の中で自由に行動できる明晰夢は、
 レベルを落とした体脱だそうです。

 言われてみればそんな感じですよね。。

 夢は、意識が違う次元に行くこと。。
 私は夢でそう教えられたので、夢自体ある意味体脱なのかも。。
 なんて思ってしまいます。

 子供の頃よくどこかから飛び降りたり、穴に落ちたりする夢を見ると
 ガクッとなって目が覚めることありましたよね。。

 背が伸びているんだよ。。なんて聞かされていましたが、もしかすると
 意識体が肉体に戻る時の衝撃だったのかも??なんて。。

 
 あと、金縛りも体脱一歩手前なんだそうですね。金縛りは細胞の波動が
 とっても高まった時(気のエネルギーが上昇した時)に起こるそうなので、
 金縛りにあったら体脱のチャンス!!と思うといいそうです。。

 
 でも。。金縛り経験なら非常にたくさんありますが。。
 あんまり気持ちのいいものではないです。。

 体脱の一歩手前と聞いてからは怖い。。と思うことはなくなりましたが、
 それ以前は怖くてガチガチでした。。。

 耳が割れるような大きい耳鳴りがしたり、鏡に女の人の顔がドアップで
 写っていたり、あと足元に座っていた女の子が移動してきて、寝ている
 私の顔の上で髪の毛をとかしていたり。。


 いろいろありますが、一番印象深いのはこんなのです。。

 
 下の子がまだお腹にいた頃、つわりの期間中私は実家で過ごしていました。

 週末に夫もやってきて、その日は上の子はおじいちゃんおばあちゃんと一緒に
 上で寝て、下の和室で私達は寝ていました。

 夜中にふと目が覚めるとまた金縛り。。

 和室の隣はリビングで、こちらとはふすまでしきられているのですが、
 たまたま暑かったので少し開けていました。

 なんだか気配がして横目で見ると、リビングに女の人と男の子が立っていました。

 女の人は一昔前のワンピースに帽子をかぶっていて顔はよく見えませんでした。
 男の子も半袖半ズボン、そして野球帽をかぶっていました。

 私が「ひえ~~~」と思っていると、その女の人は男の子に
 「あの女の人の所に行きなさい。」と言いました。

 …といっても実際に言葉で言っていたわけではないのですが、そう感じました。

 男の子はうなずくと私のほうに向かってきました。
 ただそこにイスがおいてあったので男の子はなかなかそれを乗り越えられずに
 いました。

 私は「お願い!!来ないで。。」と必死に隣で眠っている夫を
 起こそうとしましたが、なにせ金縛り中(泣)

 男の子がイスを乗り越えこちらの部屋に入って来た時、発狂寸前(爆)の私は
 自分の悲鳴とともに、金縛りを解きました。。と同時に男の子も女性も消えていました。。

 
 そのあと急に「次に生まれてくるのは男の子だ。。」と確信してしまいました。。

 そしてあの女の人がなんとなく悲しそうだったのがとても気になり、
 今でも思い出す度になんとも言えない気持ちになります。

 次に生まれたのは男の子。。これは半分の確率なのでなんとも言えませんが。。

 彼は「ねんねんころりよ~」の子守唄や悲しげな曲を聴くと生まれたての
 赤ちゃんの頃から大泣きしたので、ますます何かあったの??
 なんて勘ぐってしまったりして(苦笑)

 
 今だによくわからない不思議体験でしたが、こんな経験もしていたりします。。
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個別記事の管理2006-04-12 (Wed)
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 『もと』


 「もと」は何でも知っている。

 …けれども、何もできない。ただ「ある」だけ。


 でも、この世にあるすべてのものは「もと」の中に「ある」。
 そして、この世にある全てのものの中にも「もと」は「ある」。


 「もと」は「経験」ができる「からだ」と「こころ」を持って
 自分の記憶を消して旅にでる。


 自分を知りたかったから。。。

 自分を大きくしたかったから。。。


 「今のわたし」は自分の「もと」の姿を忘れてる。

 でも、忘れることは「もとのわたし」が決めたこと。

 「今のわたし」と重なって一緒にいてくれる目に見えない
 「もうひとりのわたし」。。。

 そのわたしは「もとのわたし」のことを覚えてる。

 だから。。。
 記憶をうしなった「今のわたし」は自分のなかにいる「もうひとりのわたし」に
 聞けば、だいたいのことがわかるんだよ。。

 ただ。。
 その「もうひとりのわたし」のお話を、素直に聞くことも信じることも
 「今のわたし」にはとても難しいことで。。。

 それができるようになるためには「経験」というものが必要になってくる。。

 
 「経験」をするために必要なもの…それは何?

 それは「今のわたし」が持っている「からだ」と「こころ」

 そして「覚えていないという」状態。


 「もとのわたし」のことを覚えていて「からだ」というものを持たない
 「もうひとりのわたし」だけでは「経験」はできないから。。。

 そしてもし「今のわたし」が本当のことを全部思い出してしまっても
 この「経験」というものはできなくなってしまう。

 そこで「もとのわたし」は旅の目的を果たせるように。。と出発前に
 自分でカギをかけた。

 出来れば、、、思い出さないように。。。と。。。


 「経験」に必要な「からだ」と「こころ」を持って、そして帰り道を
 永遠に見失わないようにと「もうひとりのわたし」をお供につけて旅にでた。


 「もうひとりのわたし」は自分が「もとのわたし」だと覚えてる。

 だから「もうひとりのわたし」に聞けば、いろいろなことがわかるんだよ。

 ためしに「もうひとりのわたし」に「お友達のえんぴつをとってもいいの?」と
 聞いてごらん。

 「もうひとりのわたし」は何と答えた?

 「いいって答えたよ!」なんて言わないようにするためには、
 やっぱりたくさんの「経験」が必要になっていく。

 でも「えんぴつをとってもいいよ。」と「今のわたし」が言ったり、
 思ったりしてしまうこと。。。

 それすらも「もとのわたし」にとって目的だった「経験」のひとつになっている。。

 そして、そのことに気づくには、またまた「経験」が必要。。

 
 旅の途中、わたしたちはたくさんの「経験」をするけれども、
 それはたくさんの「今のわたし」によっていろいろになっていく。

 いろいろになることが、「もとのわたし」の望みだったから。

 そして「経験」を重ねていくうちに「今のわたし」は少しづつ「もとのわたし」を
 思い出してくるけれども、カギがかかっているからハッキリ思い出せないかもしれない。。


 ほんの一瞬だけ「もとのわたし」に戻ることもある。

 自分が「もと」だったこと、あなたが「もと」だったこと、
 みんなが「もと」だったこと。。

 それを感じる「一瞬」が、起こることももしかしたらあるかもしれない。

 それは、お話を聞いたり本を読んだりして「知る」こととは違い、
 それは「感じる」ものなんだよ。。

 でもね。。その一瞬も「もとのわたし」がしてみたかった「経験」の中の
 ひとつに過ぎないってこと。

 たとえ「もとのわたし」に戻れなかったとしても、それも「もとのわたし」が
 してみたかった「経験」のひとつ。。。


 「今のわたし」が「もとのわたし」を少し思い出し始めると、わたしは、
 もっともっとハッキリ思い出したくなってしまって、カギをあけるための
 「道具」を探し求めてしまうことがあるかもしれない。。

 「道具」を探して森に入り込むと道に迷ってしまうから要注意。。

 「カギをあける道具」なんてないの。。

 だって「もとのわたし」には「形」がないのだから。。

 でも、迷ってしまうこと。。
 それもまた「もとのわたし」が望んだ「経験」の一部。


 すべての人のすべて経験。。

 これは「もとのわたし」の求めていた大事な大事な宝物。

 「経験」するために「もとのわたし」が持たせた「こころ」のおかげで
 「今のわたし」は嬉しかったり、悲しかったり、喜んだり、怒ったりできる。

 うんうんとうなずいたり、う~~ん?とわからなかったり、ちがうちがうと
 首を横にふったりできる。


 それらが全部、、、
 「もとのじぶん」の宝物になっていくだろう。。


 そして、すべてのものの「もと」はひとつ。。。ということ。


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個別記事の管理2006-04-17 (Mon)
 今読んでいるのは、ケン・ウィルバーの「存在することのシンプルな感覚」
 という本なのですが、


 
存在することのシンプルな感覚存在することのシンプルな感覚
(2005/11)
ケン ウィルバー

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 これは今までの彼のたくさんの本からの名場面集のような内容なので、
 ウィルバーに興味はあるけれどまだ彼の本を読んだことはないという方
 にはおすすめです。。

 
 この本を読んで思ったのは「このケン・ウィルバーという人はすごい!」と。。
 なんだか理屈抜きで感動してしまいました。この人は本物だ。。と思います。

 この感覚を言葉で表現するのはとても難しいのですが、彼の言葉は読んでいて
 スカッとします。気持ちいいです。

 
 世の中には聖者やマスターと呼ばれる人達はたくさんいるけれど、
 例えば聖域にこもってとか、聖職について、とか。。そういう場にいれば、
 聖者になるのは簡単です。。

 でも、この人は「俗世間」の中で、マスター達のような、もしかすると
 それ以上の意識を保っていられる人だと感じました。そして少しも奢らない。。
 説得しようという強引さもない。。

 
 ケン・ウィルバーはチベット密教や、仏教、そして禅などから深く影響を
 受けているようですが、でも、彼はもうそれすら超えているような気がします。

 奥様をガンでなくされ、彼女のことを「僕が出会った中で、たったひとり
 『本当に悟った人』だ」と語っていましたが、私はケン・ウィルバー自身も、
 本当に悟った人だと感じました。。

 その奥様との愛の軌跡を綴った「グレース&グリッド」からの抜粋も
 かなり入っているのですが、これはもう涙なくしては読めなくて。。

 私は外で読んでいたのでだいぶ慌てました(苦笑)

 
 彼は本物です。。としかいいようがなくて、あとは読んで感じて下さい。
 としか言えないくらい。。。

 今日読んでいたところからのみ、少しだけ抜粋してみます。。


 『スピリット』の男性の顔ー神ーは、まずもって、エロス、
 つまりコスモスの上昇、あるいは超越的な流れである。

 それはより大きな全体性、より広い合一を常に求め、限界を破って、
 無限の大空、可能性に手を伸ばす。より偉大な善と栄光を生み出し、
 より深いものを求めて、浅いものを投げ捨てる。


 『スピリット』の女性の顔ー女神ーは、まずもってアガペ、慈悲である。
 それはコスモスの下降の運動であり、コスモスに内在する、顕現の流れである。

 それは身体化の原則、肉体化、関係などの原則であり、すべてのものを抱擁し、
 何者も拒否しない。

 エロスは一者の善へ向かって、超越的な智恵のなかで上昇する。
 アガペは、多者をその善性と内在的な思いやりをもって抱擁する。


 一者へ帰還し、一者を抱擁する多者は善である。
 そしてそれは『智恵』と呼ばれる。

 多者へ帰還し、多者を抱擁する一者は善性である。

 そしてそれは『慈悲』と呼ばれる。



 「智恵」と「慈悲」。。どちらかひとつでは到達できないのですよね。。

 自分が今いるところはどこだろうと考えます。。「智恵」か「慈悲」か。。
 「エロス」か「アガペ」か。。もっと違うところでしょうか。。
 それとも最初からすでにその場にいるのでしょうか。。

 (余談ですが、パウロ・コエーリョは「愛」を「エロス」と「フィロス」と
 「アガペ」に分けていましたが、彼の言う「エロス」は、ケン・ウィルバーの
 「エロス」とは若干意味が異なっているような気がします)

 
 二元的なものを越えた、非二元的な世界。。ゼロの地点。。

 とても複雑なパラドックスが存在していて、その地点はどちらでもないけれど、
 どちらの要素も含んでいる。。

 しかもどちらかに傾くと違うものになってしまうのに、どちらも
 知っていなくては到達できない地点。。

 
 そしてここは。。本当は、二元的なものなど、もともと存在してはいないはずなのに、
 二元的な法則が出来あがってしまっている不思議な世界。。

 プラスとマイナス、善と悪、カオスとフラクタル。。光でさえも
 プラスのフォトンとマイナスのフォトンに分かれてしまう。。

 私たちが創りあげたこの世界の法則に従うのならば、その幻の二極を
 経験しなくてはゼロに辿りつけないなんて。。なんだか矛盾していますよね。。


 なんだかそろそろ、このパラドックスから抜け出すために、私たちの
 「意識の改革」が必要のような気がしてならないです。。。


 …と自分でも何を言っているのか解からなくなってきたので、この辺でやめておきます。。
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個別記事の管理2006-04-19 (Wed)
 先日、「ケン・ウィルバーは本当に悟った人だと思う。」と言いましたが、
 「悟る」ということを以前はとても疑問に思っていて、私は、多分体験からの
 影響もあったのでしょうけれど、悟りとは、「感覚」になってしまうことだと
 ずっと思っていました。

 なので、生きているうちに悟ることは無理だろうと。。
 そうでなければ人間としての意味を失ってしまうと。。ずっと思っていました。

 なので「私は悟りました」と言う人を見ると、なぜ?どうして?と
 いつも疑問に思ってしまっていました。

 
 それからいろいろな方のお話を聞くうち、「あれ?悟るというのは、
 もしかすると戻ることではなくて、知ることなの??」と気づき、
 そうしたら途端に「私は悟りました」と言う人達の言っている意味が
 解ってきました。

 
 悟る。。と一言で言っても、例えば頭で理解したことで悟った。。と
 する人もいるし、至高体験などを通して悟った。。という人もいるし、
 その定義は人によって様々だなぁ。。と思います。

 至高体験も、クンダリーニの昇華体験やハートチャクラを開く体験、
 体脱、チャネリング体験などいろいろ。。

 ちなみに、クンダリーニ体験をすると超能力が開化することもあるようで、
 これによってチャネリングなどが可能になったりするそうですが、
 この能力は日をおう毎に薄れていくようです。。

 しかも、クンダリーニ体験は精神的にも身体的にも、とっても危険を伴うので、
 むやみに試すのはやめた方がいいみたいです。。

 
 こんな感じで、悟り。。というものは、一言で「これぞ、悟り!!」と
 いうものはないような気がしていて、なので私の中ではあえて、悟りを
 定義することはしたくないなぁ。。なんて思いがずっとあるのです。

 
 先日お話したウィルバーの本の中に、こんなことが書かれていたので、
 とってもとってもうなずいてしまいました。


 
存在することのシンプルな感覚存在することのシンプルな感覚
(2005/11)
ケン ウィルバー

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 わたしたちは『究極の真実』のすべての形態を知ることはできない。
 心理学的な真実であろうと社会学的な真実、経済学的な真実、生物学的な
 真実であろうと、そのすべてを知りつくすことはできないのである。

 <中略>わたしたちは存在のすべての事実を知ることはできないけれども、
 すべての可能な、または相対的な事実の基底である『存在それ自体の事実』を
 知ることはできる。

 いったん、海が水であることを知れば、すべての波を知らなくても、
 すべての波もまた水であることを知ることができるのと同じである。



 非二次元的な性質が、万物のすべての状態のあるがままの姿なので…
 なぜなら形態は空とひとつであるのだから…、形態の世界は引き続き生起する。
 そしてあなたは、形態の世界と関係を保つだろう。

 あなたは、そこから脱出するのではない。そこから離れるのでもない。
 あなたは完全にそのなかに入っていくのだ。

 
 形態は引き続いて生起するので、あなたは、「ああ、今、完全に悟りを開いた」
 などと言えるポイントはない。こうした伝統では、悟りとは、新しい形態の、
 引き続く生起である。

 そして、あなたはそれらと空性の形態として、関係を保つ。
 あなたは生起する形態すべてと一つである。

 この意味で、あなたは悟っている。
 しかし別の意味では、この悟りは継続するプロセスである。

 なぜなら新しい形態は、常に生起しているからである。あなたは、決して
 それ以上がないというはっきりした状態に入ることはない。

 あなたは、常に形態の世界について新しいことを学ぶであろう。
 この意味では、あなたの全体の自己は、常に進化し続ける自己である。
 あなたは、確かに突破のような悟りの体験をもつことはできる。
 しかし、それは止むことなく生起する形態の、新しい波へ乗っていく、
 終わりのないプロセスの始まりである。

 この意味で、非二元的な意味では、あなたは完全に悟ることはない。
 なぜなら、もう完全に学び終わったという時がないからである。
 その言葉は意味をもたない。




 ちょっと長くなってしまいました(苦笑)


 私は、人は人であるがゆえに「未完」なのであって、それでいいのだと
 思っています。

 「未完」であるけれど「完全」それが人間だと思っています。

 自分は完璧だと。。
 例えば「私はマスターです」と思った時点で学びは終わってしまう。。。

 例えば、教師が生徒に何かを教える時、自分の教授方法は間違っていない、
 これが全てだと思ったら、それでその教師はお終いです。。

 例え私が誰かよりも何かを知っていたとしても、その誰かからも
 私の学べることは必ずあると思っています。だから、迷うことは
 大変なこともありますが、また、楽しいのです。。

 
 こういうところからもこのウィルバーは、読んでいてとても気持ちがいいのです。。
Theme : おすすめの本 * Genre : 心と身体 * Category : 神話・宗教・哲学
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個別記事の管理2006-04-19 (Wed)
 今日、「ケルトの木の知恵」という本が手元に届きました。

 素敵な写真ばかりで、パラパラっと見ただけで癒される感じです。


 
ケルトの木の知恵ケルトの木の知恵
(2003/01/01)
ジェーン ギフォード

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 この目のさめるように美しい本の中には古代の叡智が満載されています。
 
 1年間を通した魔法の暦ともなっているケルト人の木のアルファベット
 (オガム文字)の順にしたがって、個々の樹木がどのような姿をしているか、
 それらの木々からどのようなことが学べるのか、その神秘の連想や癒しの
 特性とは何か、その他多くのことを本書は語っています。

 たとえば、その一例としてシラカバを見てみましょう。この木は1年の最初を
 飾るものであり、その小ぶりな葉は大地に柔らかな陰を投げかけ、下生えの
 植物を安全に守り、昆虫、鳥、さまざまな生き物を森へと誘います。
 またシラカバは新たなはじまり、誕生、春を表わし、邪悪なものを避ける
 力ももちます。

 これらの連想から、シラカバは揺りかごを作る材料に用いられてきました。
 柔弱にみえるシラカバは、実は非常に強靱な木であり、このことは表向きの
 弱さはときとして偉大な力を秘めていることを物語っているのです。
 またシラカバの樹皮からはよい虫除けの薬ができ、樹液は天然のシャンプーに
 なります。

 最初の人類を生み出したとされるトネリコ、土壌を豊かにして水に浸かると
 石のように硬くなるハンノキ、情熱や快楽を表わすヒース、知識と詩を
 つかさどるハシバミ、神々も食したという愛の果実リンゴ、勇気と忍耐と
 信頼の木であるオーク、悲劇的な運命に陥った恋人達の伝説に登場する
 イチイなど、この本には多くの「木の知恵」が語られています。
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個別記事の管理2006-04-25 (Tue)
 先日買った「Buddha Spirit」というCDを聴きながら書いています。


 
Buddha SpiritBuddha Spirit
(2006/04/11)
Anael & Bradfield

商品詳細を見る
 

 
 これも、落ちつきます。。

 このCDを知ったのも、例の「FIRE THE GRID」を通してなのですが、
 これがまた不思議なのです。。

 そのサイトでチラッと見ながらしばらくは放っていたのですが、
 ふと聴いてみたいな。。という気になりアマゾンで検索したらすぐに出てきたので、
 そのままポンッと購入しました。。

 でも、あとでよく見たらそれはちょうど日本での発売日当日だったのでした。。
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個別記事の管理2006-04-25 (Tue)
 今日細い通りを歩いていると私の横スレスレにものすごく大きな
 トラックがやって来ました。

 そのトラックは、ちょうど私の横で信号待ちで止まったのですが、
 見るからに荷物、積みすぎなのでは??という感じだし、そして本当に
 大きかったし、道はせまくて。。

 その時、急に「もし今、この荷物が倒れてきたら、私は絶対に死ぬなぁ。。」
 なんて思ってしまったのです。

 
 今読んでいるウィルバーは、奥様をガンで亡くされていますが、
 彼女は最後まで「死」に対して抵抗することはなくて。。
 それをそのまま穏やかに受け入れているようでした。
 (私が読んでいるのは抜粋なので、もしかしたら少し違うのかもしれませんが。。)

 スピリチュアルな世界をいろいろさ迷っていると、「死」というものは、
 「終わりではない」と言うことが当たり前のように語られていますし、
 実はこの世界は本物ではなくて、あの世のほうが本物だ。。という考えから、
 死を推奨するような団体まであったりします。

 私は、死を推奨するようなやり方は好きではないのですが、でも、
 もし私がウィルバーの奥様のような立場になったら、きっと彼女と
 同じようなことを思うかもしれない。。なんて思っていたのです。

 
 でも、今日「死ぬかもしれない」と想像した時、しかも普通の想像よりも
 よりリアルに想像できてしまったとき、ものすごく怖かったです。

 心臓はドキドキするし、怖いから早くトラックから離れたいのに足が
 もつれる感じで早く歩けなくて。。

 どこかで何てバカバカしいことを考えているんだろう。。とは思っているのですが、
 でも、本当に怖くて。。

 やっと通りぬけてホッとしたのも束の間、信号がかわりまたうしろから
 そのトラックがやってきて私を追い越していったのですが、すっかり
 行ってしまうまでは、なんだか手に汗にぎる。。という感じでした。

 
 本当に、自分の想像の世界だけでこんなに怖い思いをして馬鹿みたいだなぁ。。
 と思ったのですが、でも、その時「死」を超えるということは、
 そんな簡単なことではないな。。と思いました。

 ウィルバーの奥様と同じ立場に立ったとき、実際は私はどんな心境になるのか。。
 想像しきれなくなりました。

 
 以前、不思議な体験をした時、「故郷に戻った」という思いと一緒に
 とても強い「恐怖」がありました。あの恐怖は今思うときっと、
 思い出すことに対する恐怖だったと思います。

 少しづつ少しづつ思い出していくのならばいいけれど、一度に全部思い出すことは、
 きっと怖いです。精神を壊しかねないと思います。

 もし私が神様だったら、せっかく記憶を消して旅に出たのに、
 全部思い出してしまったらこの旅がつまらなくなってしまう。。

 だから、すっかり忘れてしまうのはイヤだけれど、全部思い出したくはない。。
 きっとそう思うのではないかと。。

 
 この世ではきっと、思い出そうとする力に対して、思い出させないように
 しようとする力があって、一気に思い出しそうになった時、思い出させないように
 しようとする力が大きく強く働いて。。

 それが「恐怖」というものを生み出させるような気がしています。

 そして、その怖い。。という思いは人間が「死に対して抱いている恐怖」に
 近いような気がします。。

 
 なんだか、この世は本当は素晴らしいところなんだ。。と心から実感していても、
 時には疲れてしまうこともあって、そうするとあの世のほうが楽なのではないか。。
 なんて考えてしまうこともたまにあるけれど、でも、実際に死に直面したら
 (私の場合は想像だけですが。。)やっぱり生きていたい。。と思ってしまう
 のかもしれませんね。


 例えば、世界の終わりがやってきて、どうしてももうダメ。。という時には、
 きっと落ちついて穏やかに死を受け入れることができるだろう。。
 なんて考えていたのですが。。

 ん~~。なんだか解からなくなってきました(苦笑)
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個別記事の管理2006-04-26 (Wed)
 例のケン・ウィルバーの本を読んでいたらまたこんな事が書かれていました。
 (これはコーエンさんの言葉からの引用みたいですが。。)

 
 精神的な「師」を選ぶ時は慎重に選ぶように。ナイス・ガイ的な優しい師匠もいれば、
 荒くれ者の師匠もいる。ストレスを軽くしてエゴを慰めてくれる優しい師匠ならば
 素敵な道を歩む事ができるが、荒くれ者の師匠の場合、居心地が悪いどころではない、
 魂が消えるほど怯える。。。と。

 
 でも、覚醒へ早く辿りつきたいのであれば、荒くれ者師匠を選ぶ方がいいらしいです。。

 
 以前、ウイングメーカーのフォーラムでちょっとした出来事がありました。

 そこに「私はマスター」と名乗る方が現れて、いろいろな知識を教えて
 下さったのですが、ひとりのお仲間の方に対し、とても厳しいことを
 おっしゃられたのです。

 私は以前からずっと疑問に思っていた事があって、それは、私が読んだ本
 (多分実話に基づいたお話)の中に出てくる師匠さんはみな、弟子が間違った
 事をするとものすごい勢いでこれでもか!というほど、怒る事に対してでした。

 それこそもう、弟子が立ち直れなくなってしまうのではないかと思ってしまうくらい
 激しく弟子を罵倒します。。

 私は、弟子に試練を与えて覚醒を早めようとする気持ちも解からなくは
 ないのですが、ではそれで落ちこぼれてしまった人はどうするのだろう。。
 それで、はい、あなたはダメですね。。と切ってしまっていいのだろうか。。
 といつも疑問に思っていました。

 
 なので、そこでマスターと名乗る方が厳しい態度をとられた時、実際に
 私の目の前でそういう事が起こっているような気がして、私は思わずその方に
 抗議してしまったのです。。

 実を言いますと、その方が、なんらかの意図を持って、わざと「私はマスターです」
 とおっしゃっているのならいいのですが、そうでなかったらそれこそ、
 その方の今後の成長が。。。なんて余計なことを思ってしまったのと、
 あとは、私自身がとても打たれ弱いので、もしそんな公の場所であんな厳しい事を
 言われたのが自分であったら、しばらくは実生活でも立ち直れないくらい傷つく。。

 それにもしかしたら言われるべきは自分だったのかもしれない。。なんて思ったら
 ついつい。。(実際に言われた方は、私の心配などおよびでないくらい
 懐の深い方だったのですけれど^^;)

 
 自分が混乱したくない、自分が傷つきたくない。。
 そういう自分のその思いを他の人にまで転写してしまい、もしかしたら
 その人にとってはとても貴重なものだったのかもしれないものを、私の
 そういったエゴで潰してしまったのではないか。。

 なんて今頃になって思うのです。

 私は、誰も傷ついてほしくないし、みんなが心安らかでいてほしい。。
 変容するのならば、出来るだけ多くの人と一緒に。。と思いつつ、
 そう思うのは結局は自分のためなのかもしれないな。。なんて。。思いました。

 
 感謝が出来ない。。と言って嘆き、自分を責める人を見ると、私は
 「その感謝が出来ない状態からしか学べない何かがあるはずなのだから。。」と
 思ってしまいます。

 でも、もしかすると「感謝をしなさい!感謝が出来ないなんて愚か者だ!」
 と言った方が、実はその人のためになるのかなぁ。。なんて、
 今更ながらいろいろ考えています。

 
 これもケン・ウィルバーの本に書かれていたのですが、ある程度まで達した
 マスターも、個としての香りは残すそうです。。

 私がもしいつか変容できたら一体どんな香りを残すのか。。

 そしてその香りがまわりの人にどんな影響を与えてしまうのか。。。

 なんていろいろ考えてしまいました。。


 私はみんなと一緒に迷いながら、一緒に成長していきたい。。とは思いますが、
 前を見て歩いている人の足をひっぱらないようにしなくては。。。と、
 なんだか久々に。。少しへこみ気味です。。
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個別記事の管理2006-04-28 (Fri)
 マスターとは何か。

 ・・・という事もとても定義しづらいですね。


 本当に究極的な事を言ってしまえば、人間である以上はどんなに知り尽くしても、
 マスターとは言えないですしね。。

 「今」の私がマスターだと思うのは。。私の個人的な意見ですが。。。
 本物のマスターはきっと普通の人です。

 全てを極めてそれを自分のものにしている人は、「生きること」そのものを
 きっと大切にするので、弟子もとらずに地味~に暮らしているような気がします。

 でもそんな人に関わった人達はきっと、ただ一緒にいるだけで
 覚醒してしまうかもしれなくて、なので本人も周りの人も知らず知らずのうちに
 師匠と弟子の関係を築いていることはあるかもしれません。

 
 荒くれ者師匠についたほうが覚醒は早いそうですが、そんなにボロボロに
 なってまで得なくてはならないものって何?なんて私は思ってしまいます。

 ただ「在る」という感覚に戻るだけなのにって。。。

 それならば今を大事に生きつつ、楽しみながらゆっくりと進めばいい。
 もし悟りを得られなかったとしても、今ここにいるという事、それ以上に
 素晴らしい事ってあるの?と。。

 スピリチュアルな体験を求めるのに苦しむ必要はないし、楽しめばいいのです。
 
 でもこれはあくまでも、私の個人的な思いです。。

 
 どういう道を選ぶかは、その人がどう在りたいのか。。によって
 人それぞれなのだろうなぁ。。なんて思います。

 
 心から大事な人が石につまづいて倒れた時、あなたならどうしますか?


 走りよって抱き起こしますか?

 いつも石に注意していれば、そこに石があることに気付いてころばなくなるよ。。
 と教えますか?

 そんな石につまづくなんて!と叱りますか?

 それともその人が自分で立ち上がるまで黙って見ていますか?
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個別記事の管理2006-04-29 (Sat)
 今日、ハッ!としたことがありました。

 先日からしつこく「荒くれ者マスター」について書いていましたが、
 私のモヤモヤの原因のひとつは、マスターが魂が消えてしまいそうになるほど、
 弟子を怯えさせるというその「やり方」についてだったのですが。。。

 
 娘と一緒に電車に乗る時でした。扉が開いて中の人が全員降りるまでは、
 邪魔にならないように脇によけていなさいね。。といつもいつも
 言っているのですが、うちの娘はちょっとボーッとしたところがあって、
 よく真ん中に立って降りる人の邪魔になってしまうことがあります。

 今日も何度も注意したにもかかわらず、次の乗換でまた同じ事を
 繰り返しているので、私もプチッ!!(苦笑)


 「いいかげんにしなさい!!他の人の迷惑になるって言ってるのが
  どうしてわからないの!!本当にもうあなたって子はいつも
  ボーッとしてるんだから!!」

 
 人を傷つけたくないと思っていたはずなのに。。
 私も思いっきりやってるなぁ。。なんて思ってしまいました。
 
 しかも最愛の娘に対して。。

 
 私の怒りように(苦笑)怯えた娘はそれ以来、きっちり脇によける
 ようになりました。

 その時、なるほどぉ。。と思ってしまったのです。
 荒くれ者マスターの気持ちが少し解かりました(笑)
 ウィルバーが荒くれ者マスターについた方が覚醒が早いというのも、なんとなく。。

 
 そして以前、ウイングメーカーの掲示板で自分が書いたことを思い出しました。


 「WMは。。私達にとって『親』のような存在かもしれません。

  子供である私達は、WMからのヒントやきっかけを頼りに、自分なりに
  あちらこちらを探索しています。ある時はとんでもない方へ行ってしまったり、
  ある時は諦めそうになったり。。

  WMからしてみたら、きっとハラハラドキドキの連続かもしれませんが、
  いつか必ず、私達が自分達の力でWMの位置までたどりつく事を信じ、
  そして両手を広げて私達を待っていてくれる。。
  WMには、そんな温かさと安らぎを感じます。

  なので、私達は安心して探求を続けられるのです。。

  この世に、マスターと呼ばれる方はきっとたくさんいて、そしてWMと
  同じようにハラハラドキドキされているかもしれません。でも、どうか
  温かい目で私達の事を見守っていてくださいね。。」

 
 なんだか、自分で書いておいて見失いそうになっていました。。

 
 子育ては。。現場の人にしか解からないことがいろいろあります。。

 例えば自分も同じようなことをしていながら、子供をキツクしかっている親、
 放置している親を見ると、そのダメだと思う部分だけが強調されて
 こちらに映ってしまったりします。

 そして、そういう場面を外から見ているほうは気分が悪くなったりしますが。。
 でも、どんな時でもやっぱり親は子供の事を愛しているのだと思うのです。。
 そう信じたいです。。

 
 荒くれ者マスターについて理解出来ないと思っていましたが、自分も同じなのだ
 ということに今日気づきました。…といっても、もちろん私がマスターだと
 言ってるわけではないですが(苦笑)

 ずっとモヤモヤしていたものがすっきり解消された感じです。

 
 そして、娘は。。私にキツク注意されたあとは、きちんと直してくれました。。
 本当は優しく言っているうちに直してくれないかなぁ。。というのが
 親の願望ですが(苦笑)

 でも、荒くれ者マスターに対して反発していた私より、よっぽど立派かも。。
 なんて思ってしまいました。

 
 ところで、ここ数日、私の身の回りの流れが急速に変わってきているのを
 感じていましたが、今日またちょっとした急展開があってびっくりしていました。

 それと同時に今までの疑問のひとつが解消されて、なんだか不思議な日でした。。。
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