- Admin *
- Write *
- Edit *
- All articles
昨日の夜、床に寝転がって天井をボーッと眺めていました。
ちょっと変わった親子だと思われるかもしれませんが、、、
娘と一緒に、空中に漂うキラキラを見ていました。
多分、それはプラーナと呼ばれているものだと思います。。。
娘にもそれは見えていて、以前はオーラも見えていたようなのですけれども。。。
でも最近、オーラがすっかり見えなくなってしまったと彼女が言うので、
今は見る気が起きない。。。というか、見る必要がないから見えなく
なっているんじゃないの?
・・・なんて話をしていました。
でも昨日はなんだか、彼女もちょっとやる気?になっていたので、
じゃぁ、ちょっとエネルギーを感じる練習でも久しぶりにしてみようか。。。
ということになり、、、
両手の掌を向い合せて一定の距離を開け、その間の空間で自分の手の
オーラ体同士がぶつかる感覚を感じてみる。。。なんていうのをやっていました。
私自身は、今はそういうのにもあんまり興味がなくなってしまったので、
途中で飽きてしまったのだけど(苦笑)
娘はめずらしく気合を入れて練習しているので、私はその間また、
天井を眺めていました。。。
私も最近では、色のオーラはほとんど見えないのですが、ボーッとしていると
黄金のアミのオーラだけは、相変わらず見えてくるのです。
そしてそれが、一番濃く見える。。。
でも昨日はいつもと違っていて。。。
なんだか紫とマゼンタとピンクを混ぜたような。。。
そんなバラ色の雲のようなもの、、、でもよく見ると雪の結晶みたいなというか
フラワー・オブ・ライフのようなというか。。。
そんな細かい模様のすじみたいなものも見えて。。。
チャンネルが切り替わると、いつものように金のアミアミが見えるのだけど、
昨日はなぜか違うチャンネルに切り替わり、そのバラ色の雲のほうに
焦点が合うほうが多かったです。
ずっと前、シャボン玉のように透明で厚みのある中に、色々なパステルカラーが
混ざっているというオーラを見たことがありました。。。
でも、そのオーラが見えていた期間は結構短い間で。。。
だから、今回のバラの雲?幾何学模様?。。。も、いつまで見えているか
解らないので、結構真剣に見ちゃった。。。
今回のような種類のオーラは、初めて見えたのですが、あれって何なのでしょう?
今も、いちお見えてはいるのですが。。。
でもこの先、ずっと見えつづけている保証はないので、、、
忘れないように、メモです。
ちょっと変わった親子だと思われるかもしれませんが、、、
娘と一緒に、空中に漂うキラキラを見ていました。
多分、それはプラーナと呼ばれているものだと思います。。。
娘にもそれは見えていて、以前はオーラも見えていたようなのですけれども。。。
でも最近、オーラがすっかり見えなくなってしまったと彼女が言うので、
今は見る気が起きない。。。というか、見る必要がないから見えなく
なっているんじゃないの?
・・・なんて話をしていました。
でも昨日はなんだか、彼女もちょっとやる気?になっていたので、
じゃぁ、ちょっとエネルギーを感じる練習でも久しぶりにしてみようか。。。
ということになり、、、
両手の掌を向い合せて一定の距離を開け、その間の空間で自分の手の
オーラ体同士がぶつかる感覚を感じてみる。。。なんていうのをやっていました。
私自身は、今はそういうのにもあんまり興味がなくなってしまったので、
途中で飽きてしまったのだけど(苦笑)
娘はめずらしく気合を入れて練習しているので、私はその間また、
天井を眺めていました。。。
私も最近では、色のオーラはほとんど見えないのですが、ボーッとしていると
黄金のアミのオーラだけは、相変わらず見えてくるのです。
そしてそれが、一番濃く見える。。。
でも昨日はいつもと違っていて。。。
なんだか紫とマゼンタとピンクを混ぜたような。。。
そんなバラ色の雲のようなもの、、、でもよく見ると雪の結晶みたいなというか
フラワー・オブ・ライフのようなというか。。。
そんな細かい模様のすじみたいなものも見えて。。。
チャンネルが切り替わると、いつものように金のアミアミが見えるのだけど、
昨日はなぜか違うチャンネルに切り替わり、そのバラ色の雲のほうに
焦点が合うほうが多かったです。
ずっと前、シャボン玉のように透明で厚みのある中に、色々なパステルカラーが
混ざっているというオーラを見たことがありました。。。
でも、そのオーラが見えていた期間は結構短い間で。。。
だから、今回のバラの雲?幾何学模様?。。。も、いつまで見えているか
解らないので、結構真剣に見ちゃった。。。
今回のような種類のオーラは、初めて見えたのですが、あれって何なのでしょう?
今も、いちお見えてはいるのですが。。。
でもこの先、ずっと見えつづけている保証はないので、、、
忘れないように、メモです。
子供の頃から歌うことはずっと好きで、歌わない日はない。。。というくらい
ずっと歌い続けてきましたが、本格的に勉強したことはありません
でしたので、私には「知識」というものがまったくありませんでした。
そのことを、ヴォーカルレッスンの先生に話すと、、、
自然に歌えてしまう人というのは、耳が良いのだと言っていました。
まず、聴く耳を持っている。。。ということ。
耳でそれを聴きとって、どうやったらそれと同じように歌えるんだろう?と
あれこれやっているうちに、ある程度は歌えるようになってしまうのだそうです。
なんでもそうですよね。
まずは、「聴くこと」から。
もちろん、、、
その前に、「本当にそれが好き」。
そういう気持ちがあることが、まず最初なのですけれども。
今、本格的にヴォイトレを初めて感じていることは、、、
歌い方の方法論を勉強することによって、かなり混乱期に突入している。。。
ということです。
歌う時、考えるようになってしまった。。。
でもここもまた、通るべき一つの通過地点。。。
今まで自己流に歌っていた部分を、先生の言う歌い方で歌うと
途端に歌えなくなってしまって、すごくストレスがたまったりもして。
だから、先生の言うことを一切無視したくなったり、先生のやり方を
批判したくなったりという「エゴ」が、ムクムクと顔を出してくる
こともあるのだけれども。。。
そこはグッと抑えて素直にならなければ、いつまでたっても
「井の中の蛙状態」、、、自己満足状態からは脱することは出来なくて。
それでは、せっかくヴォーカル・トレーニングを始めた意味がない。
なのでこれはある意味、、、
自分のエゴとの戦いでもあったりします(苦笑)
でもきっと、そこを乗り越えた時、、、
知らない間に、歌うための身体が出来ていたりとかして。。。
その時きっと、「素直にやっておいて良かった。」と思える日が必ず来ることを、
信じて頑張っていたりします。
まぁこういうのもひとえに、、、
本当に好きだからやっていられるのでしょうけど(笑)
私はどちらかというと、透明ヴォイスというか、、、
透き通るような声、裏声を混ぜた、どちらかというと儚く歌う
歌い方が好きなのです。
ウィーン少年合唱団とか、リベラのようなエンジェル・ヴォイス、
または自分の世界を確立したあとのサラ・ブライトマンとか
あとは、元ケルティックウーマンのメイヴとか。
でも、今は、地声のままで高音を出す練習をしていたりして。。。
この歌い方で歌うと、かなりパワフルな歌い方になり、
自分の好みとはだいぶかけ離れていったりもするのですが。。。
どうせやるなら、いろんな歌い方が出来た方がいいですし、
出来た上で、自分の歌い方を選べるようになった方がいいですしね。
今練習している裏声を使わずに高音を出す発声法は、先生のお話を
聞く限り、ポイントポイントがクラシックのベルカント唱法と
かぶるところがあって、「おやぁ?」という感じがしています。
クラシックとポップスでは、全然違うものだと思っていたから。
ベルカントをやり始めた時は、先生に「喉を開いて」とずっと言われて
いたので勘違いしていましたが、あれも声帯自体は閉じているのですよね。
声帯を閉じて、鼻の付け根から声を出すようにイメージして
そして、腹筋を使って。。。
それがこちらのヴォーカルレッスンでやっていることとかぶるのですが、
一体何が違うのだろう?と調べてみたら、こんなサイトにぶつかりました。
ベルティングとは?
あれ?もしや今やっているのって、、、
例のベルティング唱法なの???って。。。そんな気がしてきて。。。
ベルティング
今度、先生に聞いてみたいと思います。。。
ABBAがベルティング唱法でしたよね。
ずっと歌い続けてきましたが、本格的に勉強したことはありません
でしたので、私には「知識」というものがまったくありませんでした。
そのことを、ヴォーカルレッスンの先生に話すと、、、
自然に歌えてしまう人というのは、耳が良いのだと言っていました。
まず、聴く耳を持っている。。。ということ。
耳でそれを聴きとって、どうやったらそれと同じように歌えるんだろう?と
あれこれやっているうちに、ある程度は歌えるようになってしまうのだそうです。
なんでもそうですよね。
まずは、「聴くこと」から。
もちろん、、、
その前に、「本当にそれが好き」。
そういう気持ちがあることが、まず最初なのですけれども。
今、本格的にヴォイトレを初めて感じていることは、、、
歌い方の方法論を勉強することによって、かなり混乱期に突入している。。。
ということです。
歌う時、考えるようになってしまった。。。
でもここもまた、通るべき一つの通過地点。。。
今まで自己流に歌っていた部分を、先生の言う歌い方で歌うと
途端に歌えなくなってしまって、すごくストレスがたまったりもして。
だから、先生の言うことを一切無視したくなったり、先生のやり方を
批判したくなったりという「エゴ」が、ムクムクと顔を出してくる
こともあるのだけれども。。。
そこはグッと抑えて素直にならなければ、いつまでたっても
「井の中の蛙状態」、、、自己満足状態からは脱することは出来なくて。
それでは、せっかくヴォーカル・トレーニングを始めた意味がない。
なのでこれはある意味、、、
自分のエゴとの戦いでもあったりします(苦笑)
でもきっと、そこを乗り越えた時、、、
知らない間に、歌うための身体が出来ていたりとかして。。。
その時きっと、「素直にやっておいて良かった。」と思える日が必ず来ることを、
信じて頑張っていたりします。
まぁこういうのもひとえに、、、
本当に好きだからやっていられるのでしょうけど(笑)
私はどちらかというと、透明ヴォイスというか、、、
透き通るような声、裏声を混ぜた、どちらかというと儚く歌う
歌い方が好きなのです。
ウィーン少年合唱団とか、リベラのようなエンジェル・ヴォイス、
または自分の世界を確立したあとのサラ・ブライトマンとか
あとは、元ケルティックウーマンのメイヴとか。
でも、今は、地声のままで高音を出す練習をしていたりして。。。
この歌い方で歌うと、かなりパワフルな歌い方になり、
自分の好みとはだいぶかけ離れていったりもするのですが。。。
どうせやるなら、いろんな歌い方が出来た方がいいですし、
出来た上で、自分の歌い方を選べるようになった方がいいですしね。
今練習している裏声を使わずに高音を出す発声法は、先生のお話を
聞く限り、ポイントポイントがクラシックのベルカント唱法と
かぶるところがあって、「おやぁ?」という感じがしています。
クラシックとポップスでは、全然違うものだと思っていたから。
ベルカントをやり始めた時は、先生に「喉を開いて」とずっと言われて
いたので勘違いしていましたが、あれも声帯自体は閉じているのですよね。
声帯を閉じて、鼻の付け根から声を出すようにイメージして
そして、腹筋を使って。。。
それがこちらのヴォーカルレッスンでやっていることとかぶるのですが、
一体何が違うのだろう?と調べてみたら、こんなサイトにぶつかりました。

あれ?もしや今やっているのって、、、
例のベルティング唱法なの???って。。。そんな気がしてきて。。。

今度、先生に聞いてみたいと思います。。。
ABBAがベルティング唱法でしたよね。
もう10年くらい前だと思いますが、私もドランヴァロさんのあの
本を読みました。
でも、例の如く、全部しっかり読んでいないし、細かい部分はほとんど
忘れてしまっていたのですが、先日のオーラの形?が、妙にこの
フラワー・オブ・ライフっぽく見えたので、ちょっと気になりました。。。
ドランヴァロさんの話とWMは、かぶるところたくさんありますね。
こちらの。。。
・・・も、WM日本語サイトで「ハートの美徳の実践」がこれに似ている。。。との
話を読んだので、いちお買っては見たものの。。。
パラパラとしただけで、一度も読んでない(苦笑)
いつもこうなんですよね。。。
縁がない本は、読みたくても読めないのです。。。
そうやって無駄にした本が、たくさん。。。(苦笑)
まぁ。。。
同じことを言うにしても、WM風に説明してもらった方が、
私の頭には馴染む。。。ということですね。
「フラワー・オブ・ライフ」と検索したら、こんなサイトにぶつかりました。
太陽の神殿
ここで、「ツリー・オブ・ライフ」(生命の樹)について触れられている
部分に少し反応しました。

この樹は、カバラ神秘思想の根幹をなすところから、ヘブライ人が起源だと
いわれてきました。しかし、古代エジプト文明の神殿の柱にも彫り残されて
いるのです。
この“ツリー・オブ・ライフ”も、“シード・オブ・ライフ”と同じく、
“フラワー・オブ・ライフ”の幾何学模様の中に、見事にその姿を顕わしています。
エジプトの柱に見つかった“ツリー・オブ・ライフ”には、上下に一つづつ
センターがつけ加えられ、合計12のセンターが存在していますが、そのすべてが
この“フラワー・オブ・ライフ”に見て取れます。この幾何学模様の2つの円が
重なった時に生まれる線を「ヴェシカ・パイシス」というのですが、
“ツリー・オブ・ライフ”に存在する線は、すべて「ヴェシカ・パイシス」と
一致しています。
つまり、この樹は、古代エジプト文明よりも以前に存在し、私達に大いなる
智恵を与えているものだといえるのです。 *ドランヴァロ・メルキゼデク氏より
カバリスト達は古の時代、、、
エジプトのアレクサンドリアの図書館で、ギリシャの哲学者達やスーフィーの
人達と意見交換をしたとかって。。。そんな話も聞いたことありますし、、、
カバラはその長い伝統の中で、新しく必要なものはそこに取り入れ、
要らなくなったものは捨ててきましたので、そこにエジプトの教えが
混ざりこんでいたとしても、不思議ではありませんね。
また、その逆もあるかもしれませんし。
ユダヤからエジプトへ。。。という流れ。。。

それからこれ、、、
ダスカロスの教える、「シンボル・オブ・ライフ」

初めてこれを見せられた時は、カバラの生命の樹に思いっきりそっくりだと
思ったのですが、ダスカロス曰く、厳密に言うとそれとは微妙に違うのだそうです。
ダスカロスの「シンボル・オブ・ライフ」についてはこちらに書かれていますね。
シンボル・オブ・ライフ
ダスカロスのお話でも、これの起源は古代エジプトとなっていますね。。。
しかもあの、いろいろと噂のあるイクナートン(ツタンカーメンのお父さん)も
出てきて面白いお話ではあります。
ダスカロスのお話では、これはエジプトからエッセネ派に伝えられたものであり、
そのエッセネ派にイエスはいたことになっています。
一方カバラのほうでは、イエスは元々はカバリスト(ユダヤ密教の修行者)で、
エッセネ派というのは、カバラの一派だということになっています。。。
それが発展していくうえで、そのグループごとに多少色付けが変わって
いくのは当たり前だと思います。
ですので、その微妙な違いは、その民族やグループそのものの個性を
そこに反映した結果なのだろうな、と個人的には思います。
これだけ似ているのですし、結局、「もと」はひとつなのでしょうしね。
もとは同じものがいくつかの枝葉に分かれ、その先に多様性が生まれる。。。
それを観察者的な視点で眺め、そのすべてに共通するものを見つけ出したり
することが、、、私は好きです。
本を読みました。
![]() | フラワー・オブ・ライフ―古代神聖幾何学の秘密〈第1巻〉 (2001/12) ドランヴァロ メルキゼデク 商品詳細を見る |
![]() | フラワー・オブ・ライフ―古代神聖幾何学の秘密〈第2巻〉 (2005/09) ドランヴァロ メルキゼデク 商品詳細を見る |
でも、例の如く、全部しっかり読んでいないし、細かい部分はほとんど
忘れてしまっていたのですが、先日のオーラの形?が、妙にこの
フラワー・オブ・ライフっぽく見えたので、ちょっと気になりました。。。
ドランヴァロさんの話とWMは、かぶるところたくさんありますね。
こちらの。。。
![]() | ハートの聖なる空間へ (2006/03) ドランヴァロ メルキゼデク 商品詳細を見る |
・・・も、WM日本語サイトで「ハートの美徳の実践」がこれに似ている。。。との
話を読んだので、いちお買っては見たものの。。。
パラパラとしただけで、一度も読んでない(苦笑)
いつもこうなんですよね。。。
縁がない本は、読みたくても読めないのです。。。
そうやって無駄にした本が、たくさん。。。(苦笑)
まぁ。。。
同じことを言うにしても、WM風に説明してもらった方が、
私の頭には馴染む。。。ということですね。
「フラワー・オブ・ライフ」と検索したら、こんなサイトにぶつかりました。

ここで、「ツリー・オブ・ライフ」(生命の樹)について触れられている
部分に少し反応しました。

この樹は、カバラ神秘思想の根幹をなすところから、ヘブライ人が起源だと
いわれてきました。しかし、古代エジプト文明の神殿の柱にも彫り残されて
いるのです。
この“ツリー・オブ・ライフ”も、“シード・オブ・ライフ”と同じく、
“フラワー・オブ・ライフ”の幾何学模様の中に、見事にその姿を顕わしています。
エジプトの柱に見つかった“ツリー・オブ・ライフ”には、上下に一つづつ
センターがつけ加えられ、合計12のセンターが存在していますが、そのすべてが
この“フラワー・オブ・ライフ”に見て取れます。この幾何学模様の2つの円が
重なった時に生まれる線を「ヴェシカ・パイシス」というのですが、
“ツリー・オブ・ライフ”に存在する線は、すべて「ヴェシカ・パイシス」と
一致しています。
つまり、この樹は、古代エジプト文明よりも以前に存在し、私達に大いなる
智恵を与えているものだといえるのです。 *ドランヴァロ・メルキゼデク氏より
カバリスト達は古の時代、、、
エジプトのアレクサンドリアの図書館で、ギリシャの哲学者達やスーフィーの
人達と意見交換をしたとかって。。。そんな話も聞いたことありますし、、、
カバラはその長い伝統の中で、新しく必要なものはそこに取り入れ、
要らなくなったものは捨ててきましたので、そこにエジプトの教えが
混ざりこんでいたとしても、不思議ではありませんね。
また、その逆もあるかもしれませんし。
ユダヤからエジプトへ。。。という流れ。。。

それからこれ、、、
ダスカロスの教える、「シンボル・オブ・ライフ」

初めてこれを見せられた時は、カバラの生命の樹に思いっきりそっくりだと
思ったのですが、ダスカロス曰く、厳密に言うとそれとは微妙に違うのだそうです。
ダスカロスの「シンボル・オブ・ライフ」についてはこちらに書かれていますね。

ダスカロスのお話でも、これの起源は古代エジプトとなっていますね。。。
しかもあの、いろいろと噂のあるイクナートン(ツタンカーメンのお父さん)も
出てきて面白いお話ではあります。
ダスカロスのお話では、これはエジプトからエッセネ派に伝えられたものであり、
そのエッセネ派にイエスはいたことになっています。
一方カバラのほうでは、イエスは元々はカバリスト(ユダヤ密教の修行者)で、
エッセネ派というのは、カバラの一派だということになっています。。。
それが発展していくうえで、そのグループごとに多少色付けが変わって
いくのは当たり前だと思います。
ですので、その微妙な違いは、その民族やグループそのものの個性を
そこに反映した結果なのだろうな、と個人的には思います。
これだけ似ているのですし、結局、「もと」はひとつなのでしょうしね。
もとは同じものがいくつかの枝葉に分かれ、その先に多様性が生まれる。。。
それを観察者的な視点で眺め、そのすべてに共通するものを見つけ出したり
することが、、、私は好きです。
私のこの人生の軸となっているものは、ここでも何度も書いてきた
10代の時に経験した、不思議な体験です。
あの体験で実感したことは、「すべてのもののもとはひとつ」ということであり、
同時に、この世というものは本当に「夢」なのだと・・・そう実感しました。
これは、私にとってはまったく疑いようのない真実です。
しかし、それを私以外の誰かに対して、証明できるものは何もありませんし、
説得することもできないことではありますが、逆に、誰に何と言われようとも
私の中のこの真実は、決して揺らぐこともないでしょう。
そんな体験をしたあと、強く願うようになったことがひとつありました。
それは、私が知ったこの真実(と私が思っているもの)を、地球上の
すべての人達に知ってほしいということでした。
私がこの体験をしたのは、ちょうど「東欧革命」と呼ばれるものが
終結に向かった直後くらいの頃でした。
ベルリンの壁の崩壊とかルーマニアのチャウシェスク大統領の処刑とか、
そんなニュースが世間を騒がせていた頃でした。
東欧革命とは直接関係はありませんが、中国の天安門事件も、
時期的に近い頃でしたので、あの頃は、世界がめまぐるしく動き、
変化していた時期のような気もします。
チャウシェスク大統領の銃殺刑後の姿を新聞やテレビで見た時、、、
なんとも言えない気持ちになり、その姿が目に焼きついてしまって。。。
けれども、彼が死んだことにより重圧から逃れ、ホッとする人達の
姿も同時に見てしまったりもして。。。
あの頃の私はまだまだ子供ではありましたが、、、
そういった世界情勢を観察しながら、ものすごく複雑な思いを
抱えていたりしたのでした。
ちょうどそんな心境の時でしたので、あの不思議な体験で
ある真実を知ったとき、、、
この真理を世界中の人達が理解したら、もうこんな悲しいことや
苦しいことは絶対に起きない、起こそうと思う人なんていなくなる。。。
そう強く思ったのです。
実際には、「こんな馬鹿馬鹿しいこと、もう誰もしなくなるだろう。」と、、、
そう思ったのですが(苦笑)
どうしたら、全ての人がこの真実を理解することができるのだろう?
そう思っても、私には何のアイデアも浮かびませんでした。
なぜなら、私にそれが起こったのは「偶然」の出来事で、、、
自分で起こそうと思って起きたわけではなかったからです。
だからそれを起こす「方法」が、当時はまったく解らなかったのです。
方法どころか、一体自分に何が起こったのかさえも、ほとんど
解っていなかった。
解ったのは、「この世の正体」だけだったのです。
宗教ではダメだ。。。と、あの時、強く思ったことも覚えています。
それはミッションスクールでの体験や、仏教に傾倒する母との関係性の中で
いろいろと感じてきたことが、私にそう思わせる大きな要因のひとつに
なったからなのですが、でもそれ以外に、宗教では、私の思う
「地球上のすべての人」という条件が満たせないと思ったからです。
一部の人が知っただけではダメなのです。
すべての人が、自分の目で見て、自分の肌でそれを感じなければ、
世界全体は、絶対に変わらないから。
だから、どんな人でもそれを使えば、あっという間に知ってしまう。。。
そんな「悟り装置」のようなものがなければ絶対にダメなのだと。。。
そうは思ってみても、私がそれを作ってみせるわ!。。。という、
かっこよさを、私は持っていなくて(苦笑)
誰かそういうものを作ってくれる人はいないかな。。。
でも、そんなこと無理だろうな。。。なんて、、、
どこの誰とも知らない人を、なんとなく当てにしながら、、、
そうやって、何もせずに何年もの時が過ぎました。
ある日ウイングメーカーに出会い、ファーストソースの概念を知り、
ここに私の探していたものがあった。。。と、そう思いました。
私が探していたものとは、自分の想いに太鼓判を押して、
私を安心させてくれるものでした。
自分の思っている真実が、私の独りよがりのものではないんだよと。。。
そう言ってくれる何か、誰か。。。を、私はずっと探していました。
だからなんだか、、、
WMには、運命の出会いを感じてしまったりしました。
その後、WMを深めるためにあちこちを旅していくうちに、
ファーストソースの概念は、何もWMだけでなく、様々な宗教や
哲学の中で言及されてきていたものだったのだということを理解しましたが、
私にとって、生まれて初めて、あの体験を共有できたものがWMでしたので、
だから私にとってWMは特別なものなのだ、とても縁のあるものなのだという
その想いはずっと変わりませんでした。
最近、『Quantusum』を読んでいるうちに、ファーストソースだけでなく
もうひとつ、WMに対して強くご縁を感じさせられるもの。。。というか、
安心させてもらえるものを得ることができたような気がしています。
それは、「人類のグランドポータル発見」という概念のことです。
魂の存在を科学的に証明すること。
こちらに関しては、今までは漠然としたイメージしか持っていなかったので、
なんとも言えないところではあったのですが、クォンタスムを読み進めるうちに、
なんとなく期待が高まってきました。
クォンタスムで語られているテーマは、グランドポータルについてであり、
私はまだ最後までは読んでいないので詳しいことは解らないのですが、
チラッと小耳にはさんだ情報によれば、この物語の中では、そのイベントに
至るまでの経緯が語られているようで。
そして、今私が読んでいるところの内容から想像すると、それはまさに、
私がずっと願っていた「悟り装置の発明」そのものなのではないかという
気がしてきたからです。
「グランド・ポータル発見」というイベントが本当に起こるのか起こらないのかと
いうことに関しては、正直、私にはハッキリとは解りませんが、でも、
起きて欲しいとは心底思っています。
悟り装置の開発、地上の人すべてが悟りの境地に達するという出来事が。。。
だから、実のところは解らないにしても、私はジェームズの計画に乗って、
もうそれは自分の中では「起こること決定のイベント」ということにして、
私自身の物語の中に組み入れることに決めました。
そのほうが、ワクワクしますから。
これも以前にチラッと書いたことではありますが、、、
あと少ししたら、この地球上の物語は今までとはまったく違った展開に
なるのかもしれない。。。
そう思ったら、地球の人々が今のこの意識状態で生きる残されたあと少しの間、
私たち人類がこれまで辿ってきた道のり、この意識状態だからこそ築けた
文化やその歴史などを、、、
これまでの人生を懐かしむように、、、
人類のここまでの物語を、ひとつひとつを回想していってみたいような。。。
そんな心境に、、、なってきたのです。
そうやってどんどん遡っていくうちにたどり着いたものが、、、
旧石器時代の洞窟壁画でした。
洞窟。。。というものは、エンシェント・アロー・プロジェクトの
物語にも登場しますし、クォンタスムにも出てきます。
今人類の中に存在する芸術や宗教、そういったものの起源となった場所というものも、
もしかしたら洞窟の中だったのかもしれなくて、、、
心理学的にも洞窟は、人の深層心理を象徴するものらしいですが、
それも人の脳が発達する上で、太古の昔の洞窟内での出来事というものが、
何か関わっていたりしないのかと。。。
そんなことにも、ものすごく興味が湧いてきて。。。
だから私は、その「回想」のスタートを「洞窟壁画」にすることに決めたのです。
ここ数日、この本を夢中になって読んでいました。
以前読んだ、ハンコックさんの『異次元の刻印』のお話の中にも、
このルイス=ウィリアムズさんは登場していましたが、ハンコックさんは
彼のことを、少し批判的に紹介していたと思います。
でも、旧石器時代のシャーマ二ズム説というものを1900年代の終わりごろに
最初に打ち出したのが、このルイス=ウィリアムさんで、ハンコックさんの
お話も、彼がいなければ存在しえなかっただろうなと思うのですよ。
シャーマニズム説は、私にとってはとても面白く、興味深い仮説でありますが、
それをかなり慎重に、そして学術的に展開させていくルイス=ウィリアムズさんの
お話はなんとなく重みがあって、個人的にはハンコックさんよりも
こちらの本のほうが楽しめました。
ルイスさんのこの仮説でさえ、その道の研究者の方々の中には、
批判的に受け止めている人もいるようですが。
学者系の人は、結構批判的で議論好きな人が多く、そのあたりが私には
ちょっと苦手な部分だったりもします。
なぜなら、私が必死で抑えようとしている自分自身の批判精神を
刺激されてしまうからです(苦笑)
しかしながら、ルイス=ウィリアムズさんのお話を読んでいるうちに、
そういった批判精神でさえも、その根底に愛を持ってさえいれば、
建設的に使えるものだったりするのかもしれないなと、、、
そんな気持ちにさせられたりもしました。
世の中、いろいろな考え方の人がいますね。
私はある時から、どんなに力強い説であっても、ほとんどすべてを
「仮説」と受けとめるようになりました。
そしてその仮説こそが、実は現実を生み出していくのだと。。。
そう思っています。
私自身の想いでさえも、そういった意味では「仮説」です。
ルイスさんもそのあたりは、おそらく解っていらっしゃる方のようで、
自説でさえも決して押し付けることなく、これは「仮説」のひとつだという
態度を一貫して強調しつつ、「本当のところは誰も解らないのだ」と、
謙虚におっしゃっているところに、私はとても好感を持てました。
ですので私も、この本は、ルイスさんの世界を覗かせてもらう気持ちで、
楽しませていただきました。
そんな風に、これからは様々な人達の本を読んでいきたいなとも思っています。
いろんな人の世界を知ってみたいです。
この『洞窟のなかの心』という本は、、、
そういった意味でも、よいスタートをきることのできた本だと思いました。
これからしばらくは、クォンタスムなどをゆっくりと読みながら、
同時に、太古の洞窟壁画の世界を探検してみたいなと思っていたりします。
ラスコー洞窟やショーヴェ洞窟の発見の物語などを読んでいると、
ネルダ博士たちが初めて、WM遺跡を発見した時の物語と、
どうしてもかぶってしまったりもします。。。

10代の時に経験した、不思議な体験です。
あの体験で実感したことは、「すべてのもののもとはひとつ」ということであり、
同時に、この世というものは本当に「夢」なのだと・・・そう実感しました。
これは、私にとってはまったく疑いようのない真実です。
しかし、それを私以外の誰かに対して、証明できるものは何もありませんし、
説得することもできないことではありますが、逆に、誰に何と言われようとも
私の中のこの真実は、決して揺らぐこともないでしょう。
そんな体験をしたあと、強く願うようになったことがひとつありました。
それは、私が知ったこの真実(と私が思っているもの)を、地球上の
すべての人達に知ってほしいということでした。
私がこの体験をしたのは、ちょうど「東欧革命」と呼ばれるものが
終結に向かった直後くらいの頃でした。
ベルリンの壁の崩壊とかルーマニアのチャウシェスク大統領の処刑とか、
そんなニュースが世間を騒がせていた頃でした。
東欧革命とは直接関係はありませんが、中国の天安門事件も、
時期的に近い頃でしたので、あの頃は、世界がめまぐるしく動き、
変化していた時期のような気もします。
チャウシェスク大統領の銃殺刑後の姿を新聞やテレビで見た時、、、
なんとも言えない気持ちになり、その姿が目に焼きついてしまって。。。
けれども、彼が死んだことにより重圧から逃れ、ホッとする人達の
姿も同時に見てしまったりもして。。。
あの頃の私はまだまだ子供ではありましたが、、、
そういった世界情勢を観察しながら、ものすごく複雑な思いを
抱えていたりしたのでした。
ちょうどそんな心境の時でしたので、あの不思議な体験で
ある真実を知ったとき、、、
この真理を世界中の人達が理解したら、もうこんな悲しいことや
苦しいことは絶対に起きない、起こそうと思う人なんていなくなる。。。
そう強く思ったのです。
実際には、「こんな馬鹿馬鹿しいこと、もう誰もしなくなるだろう。」と、、、
そう思ったのですが(苦笑)
どうしたら、全ての人がこの真実を理解することができるのだろう?
そう思っても、私には何のアイデアも浮かびませんでした。
なぜなら、私にそれが起こったのは「偶然」の出来事で、、、
自分で起こそうと思って起きたわけではなかったからです。
だからそれを起こす「方法」が、当時はまったく解らなかったのです。
方法どころか、一体自分に何が起こったのかさえも、ほとんど
解っていなかった。
解ったのは、「この世の正体」だけだったのです。
宗教ではダメだ。。。と、あの時、強く思ったことも覚えています。
それはミッションスクールでの体験や、仏教に傾倒する母との関係性の中で
いろいろと感じてきたことが、私にそう思わせる大きな要因のひとつに
なったからなのですが、でもそれ以外に、宗教では、私の思う
「地球上のすべての人」という条件が満たせないと思ったからです。
一部の人が知っただけではダメなのです。
すべての人が、自分の目で見て、自分の肌でそれを感じなければ、
世界全体は、絶対に変わらないから。
だから、どんな人でもそれを使えば、あっという間に知ってしまう。。。
そんな「悟り装置」のようなものがなければ絶対にダメなのだと。。。
そうは思ってみても、私がそれを作ってみせるわ!。。。という、
かっこよさを、私は持っていなくて(苦笑)
誰かそういうものを作ってくれる人はいないかな。。。
でも、そんなこと無理だろうな。。。なんて、、、
どこの誰とも知らない人を、なんとなく当てにしながら、、、
そうやって、何もせずに何年もの時が過ぎました。
ある日ウイングメーカーに出会い、ファーストソースの概念を知り、
ここに私の探していたものがあった。。。と、そう思いました。
私が探していたものとは、自分の想いに太鼓判を押して、
私を安心させてくれるものでした。
自分の思っている真実が、私の独りよがりのものではないんだよと。。。
そう言ってくれる何か、誰か。。。を、私はずっと探していました。
だからなんだか、、、
WMには、運命の出会いを感じてしまったりしました。
その後、WMを深めるためにあちこちを旅していくうちに、
ファーストソースの概念は、何もWMだけでなく、様々な宗教や
哲学の中で言及されてきていたものだったのだということを理解しましたが、
私にとって、生まれて初めて、あの体験を共有できたものがWMでしたので、
だから私にとってWMは特別なものなのだ、とても縁のあるものなのだという
その想いはずっと変わりませんでした。
最近、『Quantusum』を読んでいるうちに、ファーストソースだけでなく
もうひとつ、WMに対して強くご縁を感じさせられるもの。。。というか、
安心させてもらえるものを得ることができたような気がしています。
それは、「人類のグランドポータル発見」という概念のことです。
魂の存在を科学的に証明すること。
こちらに関しては、今までは漠然としたイメージしか持っていなかったので、
なんとも言えないところではあったのですが、クォンタスムを読み進めるうちに、
なんとなく期待が高まってきました。
クォンタスムで語られているテーマは、グランドポータルについてであり、
私はまだ最後までは読んでいないので詳しいことは解らないのですが、
チラッと小耳にはさんだ情報によれば、この物語の中では、そのイベントに
至るまでの経緯が語られているようで。
そして、今私が読んでいるところの内容から想像すると、それはまさに、
私がずっと願っていた「悟り装置の発明」そのものなのではないかという
気がしてきたからです。
「グランド・ポータル発見」というイベントが本当に起こるのか起こらないのかと
いうことに関しては、正直、私にはハッキリとは解りませんが、でも、
起きて欲しいとは心底思っています。
悟り装置の開発、地上の人すべてが悟りの境地に達するという出来事が。。。
だから、実のところは解らないにしても、私はジェームズの計画に乗って、
もうそれは自分の中では「起こること決定のイベント」ということにして、
私自身の物語の中に組み入れることに決めました。
そのほうが、ワクワクしますから。
これも以前にチラッと書いたことではありますが、、、
あと少ししたら、この地球上の物語は今までとはまったく違った展開に
なるのかもしれない。。。
そう思ったら、地球の人々が今のこの意識状態で生きる残されたあと少しの間、
私たち人類がこれまで辿ってきた道のり、この意識状態だからこそ築けた
文化やその歴史などを、、、
これまでの人生を懐かしむように、、、
人類のここまでの物語を、ひとつひとつを回想していってみたいような。。。
そんな心境に、、、なってきたのです。
そうやってどんどん遡っていくうちにたどり着いたものが、、、
旧石器時代の洞窟壁画でした。
洞窟。。。というものは、エンシェント・アロー・プロジェクトの
物語にも登場しますし、クォンタスムにも出てきます。
今人類の中に存在する芸術や宗教、そういったものの起源となった場所というものも、
もしかしたら洞窟の中だったのかもしれなくて、、、
心理学的にも洞窟は、人の深層心理を象徴するものらしいですが、
それも人の脳が発達する上で、太古の昔の洞窟内での出来事というものが、
何か関わっていたりしないのかと。。。
そんなことにも、ものすごく興味が湧いてきて。。。
だから私は、その「回想」のスタートを「洞窟壁画」にすることに決めたのです。
ここ数日、この本を夢中になって読んでいました。
![]() | 洞窟のなかの心 (2012/08/02) デヴィッド・ルイス=ウィリアムズ 商品詳細を見る |
以前読んだ、ハンコックさんの『異次元の刻印』のお話の中にも、
このルイス=ウィリアムズさんは登場していましたが、ハンコックさんは
彼のことを、少し批判的に紹介していたと思います。
でも、旧石器時代のシャーマ二ズム説というものを1900年代の終わりごろに
最初に打ち出したのが、このルイス=ウィリアムさんで、ハンコックさんの
お話も、彼がいなければ存在しえなかっただろうなと思うのですよ。
シャーマニズム説は、私にとってはとても面白く、興味深い仮説でありますが、
それをかなり慎重に、そして学術的に展開させていくルイス=ウィリアムズさんの
お話はなんとなく重みがあって、個人的にはハンコックさんよりも
こちらの本のほうが楽しめました。
ルイスさんのこの仮説でさえ、その道の研究者の方々の中には、
批判的に受け止めている人もいるようですが。
学者系の人は、結構批判的で議論好きな人が多く、そのあたりが私には
ちょっと苦手な部分だったりもします。
なぜなら、私が必死で抑えようとしている自分自身の批判精神を
刺激されてしまうからです(苦笑)
しかしながら、ルイス=ウィリアムズさんのお話を読んでいるうちに、
そういった批判精神でさえも、その根底に愛を持ってさえいれば、
建設的に使えるものだったりするのかもしれないなと、、、
そんな気持ちにさせられたりもしました。
世の中、いろいろな考え方の人がいますね。
私はある時から、どんなに力強い説であっても、ほとんどすべてを
「仮説」と受けとめるようになりました。
そしてその仮説こそが、実は現実を生み出していくのだと。。。
そう思っています。
私自身の想いでさえも、そういった意味では「仮説」です。
ルイスさんもそのあたりは、おそらく解っていらっしゃる方のようで、
自説でさえも決して押し付けることなく、これは「仮説」のひとつだという
態度を一貫して強調しつつ、「本当のところは誰も解らないのだ」と、
謙虚におっしゃっているところに、私はとても好感を持てました。
ですので私も、この本は、ルイスさんの世界を覗かせてもらう気持ちで、
楽しませていただきました。
そんな風に、これからは様々な人達の本を読んでいきたいなとも思っています。
いろんな人の世界を知ってみたいです。
この『洞窟のなかの心』という本は、、、
そういった意味でも、よいスタートをきることのできた本だと思いました。
これからしばらくは、クォンタスムなどをゆっくりと読みながら、
同時に、太古の洞窟壁画の世界を探検してみたいなと思っていたりします。
ラスコー洞窟やショーヴェ洞窟の発見の物語などを読んでいると、
ネルダ博士たちが初めて、WM遺跡を発見した時の物語と、
どうしてもかぶってしまったりもします。。。

『洞窟のなかの心』という本は、訳者のかたの解説によると、
旧石器時代芸術研究の第一人者であるディヴィッド・ルイス=ウィリアムズの
主著である『The Mind in the Cave』の全訳本であり、その原書は2002年に
刊行されたのだそうです。
現在は、この日本語訳のほか、フランス語やスペイン語にも翻訳されているようです。
「洞窟壁画」というキーワードでネット上をいろいろ彷徨っていましたら、
ある先史岩絵の研究家の方のブログにたどり着きました。
日本先史岩面画研究会
こちらのブログを書かれている方は、その筋の専門家でいらっしゃるようで、
ここにある情報は、今の私にとっては、もうワクワクしてしまうようなものばかり
でしたし、とてもお勉強になりました。
ただこちらでは、『洞窟のなかの心』の本は批判的に取り上げられていて、
トンデモ扱いされていましたし、「シャーマニズム説」に関しても否定的な
立場をとられているようでした。
私は、「シャーマニズム説」は大好きですが、でも実のところは何も解らないので、
肯定も否定もしない、、、というか出来ない立場であって、なのでここは、
いろいろな人の意見を楽しんでいたいなと思います。
さて本のお話に戻りますが、、、
洞窟壁画のことを考えるうえで、誰もが気になること。。。
それは、「この絵を描いた人は、どんな人で何のために描いたのだろう?」
ということだと思います。
先ほども書きましたように、こちらの本は原書は2002年に刊行されたようなので、
今よりも少し古い情報の上に立脚して、その理論を展開させているような
ところもあったりもします。
ですので、洞窟壁画を遺したのは、ホモ・サピエンスであり、ネアンデルタール人
ではなかった。。。ということがまず前提で話が進められています。
現生人類にはできたことが、ネアンデルタール人にはできなかったのはなぜか?
それは、彼らの脳の神経構造とその構造が生み出す意識のタイプの違いによる
ものなのではないかと、ルイスさんは言っていました。
ネアンデルタール人
ネアンデルタール人の骨
現生人類(左)とネアンデルタール人(右)の頭蓋骨の比較図
次の六つのこと。。。
・一定の振幅(レンジ)を持つ意識状態(内省状態、夢見、意識変容状態など)
からもたらされる心的イメージを記憶し、自由に楽しむこと
・そのイメージを操作し、共有すること
・そのように心的イメージを社会化することで、「もうひとつの現実」(オルタナティヴ)
「並行世界の存在」「精霊の世界」がそれ自身のリアリティと生命を持つと
はっきり心に思い描き、また感情を込めて想像すること
・心的イメージと二次元・三次元のイメージとの繋がりを認識すること
・物質世界における三次元の事物の二次元的表象を認識すること
・こうした能力と、それぞれの心的イメージへの異なるアクセスによって
支えられる社会区分に従って生きること
これらのことがホモ・サピエンスにはできて、ネアンデルタール人には
出来なかったことなのだとされていました。
それゆえに、ネアンデルタール人は宗教や芸術はおろか、階層を持つ
組織的な社会構造というものを構築することができなかったのだと。
でも、もしこれが本当のことだとすると、ネアンデルタール人というのは、
死も怖れない、そして今を生きていた人達だったということになるよなぁ。。。
なんて思ったりもしました。
過去を記憶することもできなければ、未来を想像することもできなかった
そうなのですから。
ジェームズの「プロジェクト・キャメロット・インタビュー」の中の
アヌンナキですとかアトランティスのお話、またはHMSに関しては、
私はあることの比喩だと受け止めているのですが、あのお話への
理解を深めるためにも、このホモ・サピエンスとネアンデルタール人の
神経システムの違いを把握しておくことが、何かの役に立ちそうな気が
なんとなくして。
私たちホモ・サピエンスがこの複雑な神経システムを持ったことゆえの
メリット、そしてデメリット。
そのデメリットの部分を改善していくために、シンプルそのものだったらしい
ネアンデルタール人の生き方から、何か得られるものもあるのでは?と。。。
もちろん、彼らのように生きる。。。なんていう極端なことを
言うつもりはありませんが。
まぁそれはともかく、、、
ネアンデルタール人の化石の骨から取り出されたDNAのすべての解析が
2009年に終了したらしいのですが、それによって現在では様々な情報が
出てくるようになりました。
たとえば、、、
解読された塩基配列から、現生人類とネアンデルタール人のゲノムが99.5%
同じであったこと。
ネアンデルタール人のDNAと現生人類との間では、FOXP2と呼ばれる「言語遺伝子」の
同じバージョンが共有されているので、彼らも現生人類と同じように「言語」を
操れたのではないかということ。
ほとんどの現代人の遺伝子構造の少なくとも1~4%は、ネアンデルタール人に
由来するものだということがわかったこと。なので、異種間で交配があった
可能性があるということ。
などなど。。。
他にも、洞窟壁画が描かれた年代を最新の測定法で調べてみたところ、
その年代はどんどん古くまで遡っていき、4万年以上前に描かれた壁画
なども見つかるようになってきて。
時代がどんどん古くなり、それはホモ・サピエンスがヨーロッパに到着する
以前に描かれた壁画だということになってしまうと、それを描いたのは、
ネアンデルタール人だったという可能性も否定できなくなってしまうこと。
このように、2002年と今とでは、「ネアンデルタール人とはどんな人達
だったのか?」というそのイメージそのものが、また少し変わってきている
ようなのです。

ネアンデルタール人の子供の復元姿
先日も、「ネアンデルタール人の復活?!」なんていうびっくりな
ニュースを目にしたりもしました。
人のクローンを創ることに関しては、やはり倫理的にひっかかるところが
あったりしますが、今こうして、太古に絶滅した「ネアンデルタール人」と
いうもののイメージが、すごいスピードで変化してきていることが、
私にとっては、とても興味深いものであったりします。
余談ですが、少し面白かったお話がありました。
「ネアンデルタール人」というのは、その骨が最初に発見されたドイツの
渓谷の名前をとってつけられたそうなのですが、そのネアンデル渓谷の
名前自体は、この本によるとあるひとりの神学者の名前に由来するのだそうです。
この渓谷はネアンデル渓谷を見渡せる石灰岩質の断崖の高所にあった。
その渓谷を流れるデュッセル川は、デュッセルドルフのライン川と交わる
合流点へと注がれる。広く信じられていることに反して、洞窟の下を流れる川が
「蛇行する流れ(ネアンダー)」と呼ばれていたのではない。
土地の名は、十七世紀の神学者であり教師でもあったヨアヒム・ネアンダーに
由来している。彼は、聖体拝領を受けるのを拒んだため、デュッセルドルフ
神学校での地位を解任されたのだった。神学上のジレンマについて
考え込むような時に、彼がしばしばこの渓谷に散歩に出かけたことから、
そこはネアンダーの渓谷---ネアンデルタールと地元で呼ばれるようになった。
ヨアヒム・ネアンダー

ウィキペディアに書いてあったのですが、ヨアヒムの姓は本当は
ノイマンだったそうで、でも音楽家だった祖父が、当時の流行に
従ってネアンデルに変えたそうなのです。。。
ただこの「ノイマン」というのは「新しい人」という意味であり、
改名した「ネアンデル」はそれと同義のギリシャ語なのだそうです。
この「新しい人」という意味の彼の名前がついたその渓谷で、
現在ネアンデルタール人と呼ばれることとなった、ホモ・サピエンス以外の
ヒトの骨が見つかった。。。という事実に、何とも言えない不思議さを
感じてしまったりもしました。
ヨアヒム・ネアンダーは、讃美歌もいくつか作っていたようで、
こちらがその中でも有名なものなのだそうです。
旧石器時代芸術研究の第一人者であるディヴィッド・ルイス=ウィリアムズの
主著である『The Mind in the Cave』の全訳本であり、その原書は2002年に
刊行されたのだそうです。
![]() | The Mind in the Cave: Consciousness and the Origins of Art (2004/04) David Lewis-Williams 商品詳細を見る |
現在は、この日本語訳のほか、フランス語やスペイン語にも翻訳されているようです。
「洞窟壁画」というキーワードでネット上をいろいろ彷徨っていましたら、
ある先史岩絵の研究家の方のブログにたどり着きました。

こちらのブログを書かれている方は、その筋の専門家でいらっしゃるようで、
ここにある情報は、今の私にとっては、もうワクワクしてしまうようなものばかり
でしたし、とてもお勉強になりました。
ただこちらでは、『洞窟のなかの心』の本は批判的に取り上げられていて、
トンデモ扱いされていましたし、「シャーマニズム説」に関しても否定的な
立場をとられているようでした。
私は、「シャーマニズム説」は大好きですが、でも実のところは何も解らないので、
肯定も否定もしない、、、というか出来ない立場であって、なのでここは、
いろいろな人の意見を楽しんでいたいなと思います。
さて本のお話に戻りますが、、、
洞窟壁画のことを考えるうえで、誰もが気になること。。。
それは、「この絵を描いた人は、どんな人で何のために描いたのだろう?」
ということだと思います。
先ほども書きましたように、こちらの本は原書は2002年に刊行されたようなので、
今よりも少し古い情報の上に立脚して、その理論を展開させているような
ところもあったりもします。
ですので、洞窟壁画を遺したのは、ホモ・サピエンスであり、ネアンデルタール人
ではなかった。。。ということがまず前提で話が進められています。
現生人類にはできたことが、ネアンデルタール人にはできなかったのはなぜか?
それは、彼らの脳の神経構造とその構造が生み出す意識のタイプの違いによる
ものなのではないかと、ルイスさんは言っていました。


ネアンデルタール人の骨

現生人類(左)とネアンデルタール人(右)の頭蓋骨の比較図
次の六つのこと。。。
・一定の振幅(レンジ)を持つ意識状態(内省状態、夢見、意識変容状態など)
からもたらされる心的イメージを記憶し、自由に楽しむこと
・そのイメージを操作し、共有すること
・そのように心的イメージを社会化することで、「もうひとつの現実」(オルタナティヴ)
「並行世界の存在」「精霊の世界」がそれ自身のリアリティと生命を持つと
はっきり心に思い描き、また感情を込めて想像すること
・心的イメージと二次元・三次元のイメージとの繋がりを認識すること
・物質世界における三次元の事物の二次元的表象を認識すること
・こうした能力と、それぞれの心的イメージへの異なるアクセスによって
支えられる社会区分に従って生きること
これらのことがホモ・サピエンスにはできて、ネアンデルタール人には
出来なかったことなのだとされていました。
それゆえに、ネアンデルタール人は宗教や芸術はおろか、階層を持つ
組織的な社会構造というものを構築することができなかったのだと。
でも、もしこれが本当のことだとすると、ネアンデルタール人というのは、
死も怖れない、そして今を生きていた人達だったということになるよなぁ。。。
なんて思ったりもしました。
過去を記憶することもできなければ、未来を想像することもできなかった
そうなのですから。
ジェームズの「プロジェクト・キャメロット・インタビュー」の中の
アヌンナキですとかアトランティスのお話、またはHMSに関しては、
私はあることの比喩だと受け止めているのですが、あのお話への
理解を深めるためにも、このホモ・サピエンスとネアンデルタール人の
神経システムの違いを把握しておくことが、何かの役に立ちそうな気が
なんとなくして。
私たちホモ・サピエンスがこの複雑な神経システムを持ったことゆえの
メリット、そしてデメリット。
そのデメリットの部分を改善していくために、シンプルそのものだったらしい
ネアンデルタール人の生き方から、何か得られるものもあるのでは?と。。。
もちろん、彼らのように生きる。。。なんていう極端なことを
言うつもりはありませんが。
まぁそれはともかく、、、
ネアンデルタール人の化石の骨から取り出されたDNAのすべての解析が
2009年に終了したらしいのですが、それによって現在では様々な情報が
出てくるようになりました。
たとえば、、、
解読された塩基配列から、現生人類とネアンデルタール人のゲノムが99.5%
同じであったこと。
ネアンデルタール人のDNAと現生人類との間では、FOXP2と呼ばれる「言語遺伝子」の
同じバージョンが共有されているので、彼らも現生人類と同じように「言語」を
操れたのではないかということ。
ほとんどの現代人の遺伝子構造の少なくとも1~4%は、ネアンデルタール人に
由来するものだということがわかったこと。なので、異種間で交配があった
可能性があるということ。
などなど。。。
他にも、洞窟壁画が描かれた年代を最新の測定法で調べてみたところ、
その年代はどんどん古くまで遡っていき、4万年以上前に描かれた壁画
なども見つかるようになってきて。
時代がどんどん古くなり、それはホモ・サピエンスがヨーロッパに到着する
以前に描かれた壁画だということになってしまうと、それを描いたのは、
ネアンデルタール人だったという可能性も否定できなくなってしまうこと。
このように、2002年と今とでは、「ネアンデルタール人とはどんな人達
だったのか?」というそのイメージそのものが、また少し変わってきている
ようなのです。

ネアンデルタール人の子供の復元姿
先日も、「ネアンデルタール人の復活?!」なんていうびっくりな
ニュースを目にしたりもしました。
人のクローンを創ることに関しては、やはり倫理的にひっかかるところが
あったりしますが、今こうして、太古に絶滅した「ネアンデルタール人」と
いうもののイメージが、すごいスピードで変化してきていることが、
私にとっては、とても興味深いものであったりします。
余談ですが、少し面白かったお話がありました。
「ネアンデルタール人」というのは、その骨が最初に発見されたドイツの
渓谷の名前をとってつけられたそうなのですが、そのネアンデル渓谷の
名前自体は、この本によるとあるひとりの神学者の名前に由来するのだそうです。
この渓谷はネアンデル渓谷を見渡せる石灰岩質の断崖の高所にあった。
その渓谷を流れるデュッセル川は、デュッセルドルフのライン川と交わる
合流点へと注がれる。広く信じられていることに反して、洞窟の下を流れる川が
「蛇行する流れ(ネアンダー)」と呼ばれていたのではない。
土地の名は、十七世紀の神学者であり教師でもあったヨアヒム・ネアンダーに
由来している。彼は、聖体拝領を受けるのを拒んだため、デュッセルドルフ
神学校での地位を解任されたのだった。神学上のジレンマについて
考え込むような時に、彼がしばしばこの渓谷に散歩に出かけたことから、
そこはネアンダーの渓谷---ネアンデルタールと地元で呼ばれるようになった。


ウィキペディアに書いてあったのですが、ヨアヒムの姓は本当は
ノイマンだったそうで、でも音楽家だった祖父が、当時の流行に
従ってネアンデルに変えたそうなのです。。。
ただこの「ノイマン」というのは「新しい人」という意味であり、
改名した「ネアンデル」はそれと同義のギリシャ語なのだそうです。
この「新しい人」という意味の彼の名前がついたその渓谷で、
現在ネアンデルタール人と呼ばれることとなった、ホモ・サピエンス以外の
ヒトの骨が見つかった。。。という事実に、何とも言えない不思議さを
感じてしまったりもしました。
ヨアヒム・ネアンダーは、讃美歌もいくつか作っていたようで、
こちらがその中でも有名なものなのだそうです。
もう何年も前ですが、真っ暗闇の中で行う瞑想というものを体験したことが
ありました。
本当に真っ暗でまったく何も見えない中、ただ音楽だけが流れていて、
そういった環境の中で、座っていてもいいし、寝ころがっていてもいいし、
ダンスをしていてもいい。。。という、そんな瞑想でした。
私は最初、その瞑想を甘く見ていたのですが、実際に体験してみたら、
「あんな恐ろしいことは、もう二度と体験したくない。」と、そう思いました(苦笑)
暗闇の瞑想を始めたばかりの段階ではいいのです。まだ余裕なのです。
でもしばらくすると、息苦しくなってくるというか、変な恐怖感のようなものが
生まれてきて、それにとりつかれそうになってきたのです。
理性でそれを鎮めようとしても、全然ダメで、そのうち気持ちが悪くなって
きたりもしました。
「どうしよう。リタイアしないとまずいかな。」
・・・と、プチパニック状態でしばらく考えていると、それまで流れていた
恐怖感をあおるような感じの音楽が、突然気持ちのやすらぐような
ヒーリングサウンドのようなものに切り替わったのです。
その時、本当にホッとしたと同時に、急にハッキリとしたヴィジョンが
まわりに見え始めました。
あたり一面のお花畑、そして気持ちのよいそよ風まで感じるような。
今までの気分の悪さは一瞬にして消え去り、その時私は思っていました。
「あぁ、やっぱり、すべては自分の意識が創りだしているのだな。。。」と。。。
こういった体験をしたことがあったのですが、『洞窟のなかの心』の本の中には
こんな面白いお話が書かれていました。
覚醒の状態から眠りへと移っていく意識のスペクトルは以上のようなものである。
ここで私たちは、同じスペクトルを経るものの、かなり異なった効果をともなう、
もう一つの別の意識の推移を考察しなければならない。私はこれを、
「強度に満ちた意識の軌道」と呼ぶ。
これは、内への方向性と空想により深く関与するものである。
夢のような自閉的な状態は、通常の眠りへの移行とは別に、さまざまな方法によって
引き起こされることもある。
その方法の一つは感覚遮断であり、その間、外界の刺激が減少させられることによって、
内なるイメージが「解放」される。ごく普通の被験者であれば、音の遮断された
真っ暗な状態にひとりでおかれると、二、三時間で幻覚を見はじめる。
彼らは、マーティンデイルが「刺激渇望」と呼ぶ経験もする。極小の、
もっとも些細な刺激でさえも渇望し、そこにひたすら注意を向けるのである。
感覚遮断は、東洋の数多くの瞑想技法と部分的に比較することもできるだろう。
瞑想者は、できる限りまわりの環境への感覚を遮断して、ただひとつの焦点に
意識を集中する。
こうした焦点は、繰り返される呪文(マントラ)であったり視覚的な
シンボルであったりする。そして、延々と続くドラムのような音による
心理的な駆り立てや断続的に明滅する閃光のような視覚的な刺激、
ダルヴィーシュ(訳注:イスラーム神秘主義の修行者)にみられるような
持続的なリズムを刻むダンスもまた、似たような効果を神経システムにおよぼす。
内部に生じたイメージを強度に満ちた意識の軌道にそって解放させる意識の移行の
方法として、疲労、苦痛、断食、そしてもちろん向精神性物質
(訳注:脳内で作用する伝達物質)の摂取にも言及する必要があるだろう。
最後に統合失調症や側頭葉癲癇のような病的な状態があるが、これらは意識を
強度に満ちた意識の軌道へと連れ出してしまう。つまり幻覚は、向精神性物質の
摂取のように意図して求められることもあるし、今述べた誘発要因のように、
自ら求めていないのに引き起こされる場合もある。
今まで、ヴィジョン体験のようなものをいろいろと経験してきましたが、
実際に体験すると、それはあまりにもリアルで、それが「幻」だとは
とても思えないものです。
あれだけ鮮明に見えればそれが、自分の前世なのだと信じたり、神や
異次元生物だと信じこんでしまう気持ちは、私も理解できます。
私自身、ちょうど魔女やヒルデガルトにとても関心を持っていた頃は、
その世界にすっかりはまり込んでいたこともありましたから。
瞑想会や、スピリチュアル的なワークショップにいろいろと通った
こともありました。
真剣に、魔女修行をしようと思ったこともありました。
けれども、そういった時でもなぜかどこかで私はずっと、「物足りなさ」を感じ続け、、、
でもその「物足りなさ」を、ウイングメーカーには全く感じることがなかったので、
私はここを、自分のホームにしようとある時決めたわけなのですが。。。
あの「物足りなさ」の「原因」が何だったのかということに関しては、
最近になってやっと、頭でハッキリ解ってきたような気がしています。
やっぱり、思考はハートに遅れる。。。
遅れること、約2年。。。
自分の中のこの懐疑的な部分が良くも悪くも、自分自身に
そのヴィジョンを、そのまま現実だとして受け止めることにブレーキをかけます。
そして見えたものが一体何だったのか、なぜそんなものが見えるのか、、、
という意味での「なぜ?」を、私は探究したくなるのです。
私がしたかったのは、「探求」ではなくて「探究」だったわけで。
そういった私の「なぜ?」に、この本は少し答えてくれていて、、、
ですから今後も、人間の脳や神経システム、意識についてはどんどん
探究していきたいなと思っています。
もう少し抜粋を。。。
これまで説明してきたすべての心的状態が、人間の神経システムによって
生理学的に生み出されるものだ、ということを記しておく必要がある。
このような状態は、まさに人間であることの重要な部分をなしている。
そうした神経生理学的なシステムは、脳に「配線」されているのである。
同時に、意識変容状態のなかで私たちが経験する心的なイメージは、
(これから見るように、完全ではないが)圧倒的に記憶から発するものであり、
それゆえその文化に特有のものだと言える。
ハンコックさんの場合、そこで見えたものを素直にそのまま「存在」として
受けとめていましたね。。。
私はどちらかというと、ルイス=ウィリアムズさんの考え方のほうが
共感できて、こちらの物の見方のほうが好きです。
ルイスさんは、「圧倒的に記憶から発する」とおっしゃっていますが、
私もそう思っています。
しかし、それだけでもないと思います。
人類全体の深い部分にある意識、ウイングメーカー的に言えば、
ジェネティック・マインド。
そのあたりも、見えてくるヴィジョンに影響を与えているのだろうなと、
今のところはそんな風に感じていたりします。

ありました。
本当に真っ暗でまったく何も見えない中、ただ音楽だけが流れていて、
そういった環境の中で、座っていてもいいし、寝ころがっていてもいいし、
ダンスをしていてもいい。。。という、そんな瞑想でした。
私は最初、その瞑想を甘く見ていたのですが、実際に体験してみたら、
「あんな恐ろしいことは、もう二度と体験したくない。」と、そう思いました(苦笑)
暗闇の瞑想を始めたばかりの段階ではいいのです。まだ余裕なのです。
でもしばらくすると、息苦しくなってくるというか、変な恐怖感のようなものが
生まれてきて、それにとりつかれそうになってきたのです。
理性でそれを鎮めようとしても、全然ダメで、そのうち気持ちが悪くなって
きたりもしました。
「どうしよう。リタイアしないとまずいかな。」
・・・と、プチパニック状態でしばらく考えていると、それまで流れていた
恐怖感をあおるような感じの音楽が、突然気持ちのやすらぐような
ヒーリングサウンドのようなものに切り替わったのです。
その時、本当にホッとしたと同時に、急にハッキリとしたヴィジョンが
まわりに見え始めました。
あたり一面のお花畑、そして気持ちのよいそよ風まで感じるような。
今までの気分の悪さは一瞬にして消え去り、その時私は思っていました。
「あぁ、やっぱり、すべては自分の意識が創りだしているのだな。。。」と。。。
こういった体験をしたことがあったのですが、『洞窟のなかの心』の本の中には
こんな面白いお話が書かれていました。
![]() | 洞窟のなかの心 (2012/08/02) デヴィッド・ルイス=ウィリアムズ 商品詳細を見る |
覚醒の状態から眠りへと移っていく意識のスペクトルは以上のようなものである。
ここで私たちは、同じスペクトルを経るものの、かなり異なった効果をともなう、
もう一つの別の意識の推移を考察しなければならない。私はこれを、
「強度に満ちた意識の軌道」と呼ぶ。
これは、内への方向性と空想により深く関与するものである。
夢のような自閉的な状態は、通常の眠りへの移行とは別に、さまざまな方法によって
引き起こされることもある。
その方法の一つは感覚遮断であり、その間、外界の刺激が減少させられることによって、
内なるイメージが「解放」される。ごく普通の被験者であれば、音の遮断された
真っ暗な状態にひとりでおかれると、二、三時間で幻覚を見はじめる。
彼らは、マーティンデイルが「刺激渇望」と呼ぶ経験もする。極小の、
もっとも些細な刺激でさえも渇望し、そこにひたすら注意を向けるのである。
感覚遮断は、東洋の数多くの瞑想技法と部分的に比較することもできるだろう。
瞑想者は、できる限りまわりの環境への感覚を遮断して、ただひとつの焦点に
意識を集中する。
こうした焦点は、繰り返される呪文(マントラ)であったり視覚的な
シンボルであったりする。そして、延々と続くドラムのような音による
心理的な駆り立てや断続的に明滅する閃光のような視覚的な刺激、
ダルヴィーシュ(訳注:イスラーム神秘主義の修行者)にみられるような
持続的なリズムを刻むダンスもまた、似たような効果を神経システムにおよぼす。
内部に生じたイメージを強度に満ちた意識の軌道にそって解放させる意識の移行の
方法として、疲労、苦痛、断食、そしてもちろん向精神性物質
(訳注:脳内で作用する伝達物質)の摂取にも言及する必要があるだろう。
最後に統合失調症や側頭葉癲癇のような病的な状態があるが、これらは意識を
強度に満ちた意識の軌道へと連れ出してしまう。つまり幻覚は、向精神性物質の
摂取のように意図して求められることもあるし、今述べた誘発要因のように、
自ら求めていないのに引き起こされる場合もある。
今まで、ヴィジョン体験のようなものをいろいろと経験してきましたが、
実際に体験すると、それはあまりにもリアルで、それが「幻」だとは
とても思えないものです。
あれだけ鮮明に見えればそれが、自分の前世なのだと信じたり、神や
異次元生物だと信じこんでしまう気持ちは、私も理解できます。
私自身、ちょうど魔女やヒルデガルトにとても関心を持っていた頃は、
その世界にすっかりはまり込んでいたこともありましたから。
瞑想会や、スピリチュアル的なワークショップにいろいろと通った
こともありました。
真剣に、魔女修行をしようと思ったこともありました。
けれども、そういった時でもなぜかどこかで私はずっと、「物足りなさ」を感じ続け、、、
でもその「物足りなさ」を、ウイングメーカーには全く感じることがなかったので、
私はここを、自分のホームにしようとある時決めたわけなのですが。。。
あの「物足りなさ」の「原因」が何だったのかということに関しては、
最近になってやっと、頭でハッキリ解ってきたような気がしています。
やっぱり、思考はハートに遅れる。。。
遅れること、約2年。。。
自分の中のこの懐疑的な部分が良くも悪くも、自分自身に
そのヴィジョンを、そのまま現実だとして受け止めることにブレーキをかけます。
そして見えたものが一体何だったのか、なぜそんなものが見えるのか、、、
という意味での「なぜ?」を、私は探究したくなるのです。
私がしたかったのは、「探求」ではなくて「探究」だったわけで。
そういった私の「なぜ?」に、この本は少し答えてくれていて、、、
ですから今後も、人間の脳や神経システム、意識についてはどんどん
探究していきたいなと思っています。
もう少し抜粋を。。。
これまで説明してきたすべての心的状態が、人間の神経システムによって
生理学的に生み出されるものだ、ということを記しておく必要がある。
このような状態は、まさに人間であることの重要な部分をなしている。
そうした神経生理学的なシステムは、脳に「配線」されているのである。
同時に、意識変容状態のなかで私たちが経験する心的なイメージは、
(これから見るように、完全ではないが)圧倒的に記憶から発するものであり、
それゆえその文化に特有のものだと言える。
ハンコックさんの場合、そこで見えたものを素直にそのまま「存在」として
受けとめていましたね。。。
私はどちらかというと、ルイス=ウィリアムズさんの考え方のほうが
共感できて、こちらの物の見方のほうが好きです。
ルイスさんは、「圧倒的に記憶から発する」とおっしゃっていますが、
私もそう思っています。
しかし、それだけでもないと思います。
人類全体の深い部分にある意識、ウイングメーカー的に言えば、
ジェネティック・マインド。
そのあたりも、見えてくるヴィジョンに影響を与えているのだろうなと、
今のところはそんな風に感じていたりします。

![]() | プロメテウス [DVD] (2013/07/03) ノオミ・ラパス、マイケル・ファスベンダー 他 商品詳細を見る |
洞窟壁画関連で、この映画のことを知りました。
それで、ウィキペディアで内容をチェックしてみたら、なんだかこれって
WMのパクリかと思ったので、観てみることにしました。
実際に観る前に、ネットでネタバレ的なものを読んでいたので、
洞窟壁画とかDNAとか、そういったキーワードで想像するような、、、
私の期待するような内容ではないことはすでに解っていたし、
そんなわけで、あまり期待しないで観たのですが。。。
期待しなかったおかげか、そんなにガクッとくることなく、
最後まで普通に観ることができました。
映画自体に対しては、特に何も言うことはありませんが、
ふと思ったことがありました。
DNAのテンプレートを地球に蒔くということ。。。
ダーウィンの進化論では、私たち人類は猿から進化し、いつしか
二足歩行をするようになり、そして今に至ったことになっています。
一方、一部のニューエイジ的な世界では、ダーウィンの進化論は
思いきり否定されていて、私たち人類は、宇宙人による遺伝子操作に
よって生まれたことになっています。
ダーウィンが進化論を提唱する以前の西洋では、人類誕生は
聖書の世界で描かれているままだと信じこんでいたようなので、
彼の進化論は、宗教関係者のみならず多くの人達から猛攻撃を
受けたようです。
その頃の意識では、その新しい考え方を受け入れられなかったのでしょう。。。
しかし、その進化論が提唱されるほんの数年前には、ドイツのネアンデル渓谷で
なんだかよく分からない謎の骨が発見されていたりしたことから、
一部の人達の中では(その多くは学者系だと思いますが)、にわかに聖書の伝える
人類創造の物語に疑問を持つ人たちも増えてきていました。
ですので、そういった聖書の記述をそのまま現実として受けとめることに
違和感を感じていた人達は、「待っていました!」とばかりに、
進化論に飛びつきました。
謎の骨の発見による騒ぎ、そしてそのすぐあとの進化論の提唱という流れ。。。
人類の物語って、面白いのです。。。
ニューエイジ的な世界観を持つ人が、進化論を否定して、
異次元生物遺伝子操作説を信じたくなるというその心理状態からは、
聖書の記述をそのまま信じていた当時の信仰深かった人達の想いと
共通するものを感じたりもします。
深いところでは、、、
私たちはいまだに、当時と変わらない何かを持っていたりするのです。
ウイングメーカーが、遺伝子のテンプレートを地球にばらまいたとして。。。
そのテンプレート自体が、もともと、ダーウィンの進化論に沿った形で
進化するようにプログラムされていたものだったと考えれば、そこに
矛盾はないかもしれないな。なんて考えたりもしてね。
だって人間の胎児は、、、
お腹の中でその進化の道程を辿ってくるのですものね。
自分は何を信じるのか。。。
なぜそれを信じるのか。。。
二つの対立する想いを、矛盾なく綺麗にひとつにまとめることが
出来たらいいですよね。。。
そして、、、
私たちの遺伝子にあらかじめセットされているプログラムは、
どんな人でもいつかは必ず、「ウイングメーカー」へと進化するように、、、
そう最初から創られているものなのだと、私は思っているのでした。
昨日は、国立西洋美術館で開催されている『ラファエロ展』に
行ってきました。
ラファエロ展

ラファエロ・サンツィオは、15世紀から16世紀、ルネッサンス真っただ中に
フィレンツェやローマで活躍した画家で、ダ・ヴィンチやミケランジェロを尊敬し、
彼らをお手本とした人なのですが。
その天才二人に比べると、ラファエロはもっと素直?というか、、、
あまり難しくないタイプだったようなイメージが私にはあります。

『自画像』 1506年
ラファエロとかダ・ヴィンチとか。。。
あの時代のイタリアの雰囲気、大好きです。。。
ラファエロは、この絵が有名ですよね。

『システィーナの聖母』1512-14年
この可愛らしいふたりの天使は、ラファエロのアトリエの近くに住んでいた
子供達がモデルとなっている、、、というお話を、以前どこかで聞いたことが
あります。
その子達は、ラファエロのアトリエを、窓からこうやって覗いていたのだとか。
可愛い
昨日の展覧会には、こちらの絵は残念ながら来ていませんでしたが。
ヨーロッパ系の芸術、、、といえば、なんとなく避けて通れないのは
イタリアフィレンツェの大富豪メディチ家だと思います。
ラファエロ、そしてダ・ヴィンチやミケランジェロが活躍した時代のイタリアといえば、
そのメディチ家がどうしても浮かんできてしまいます。
昨日、当時のそういった貴族の人々の衣装を見ていたら、バレエの
『ロミオとジュリエット』の衣装を思い出したりしました。
バレエもやはり、そのメディチ家と絡んできたりします。
このメディチ家や、あとはハプスブルク家。。。
こういった系のお話も、いつか機会があったらゆっくりと、
いろいろと書いていってみたいと思っています。
いつその時代にたどり着けるのかは、解りませんが(苦笑)
そしてラファエロといったら、やはりキリスト教に関連した絵。。。
というイメージがあったりしますよね。
昨日も、修道士や枢機卿の絵がいくつかあって。。。
私は、今のキリスト教界にはほとんど興味ないのですけれども、
中世とかルネッサンスの頃とか、その頃のキリスト教世界には、
だいぶ関心があったりします。
ヴァチカンの歴史に興味があるのですね、きっと。
枢機卿。。。と聞くと私はすぐに、チェーザレを。。。
ボルジア家の毒薬、カンタレラのことなどを思い出し、教会の黒歴史と
結びつけてしまったりするところもあるのですが。。。
教会、そして貴族たち、そして芸術。。。
まぁ、、、
その頃の教会は、闇真っ盛りの時代。。。ともいえるのかもしれませんね(苦笑)
現代でも、ちょうど、ヴァチカンでは新しくローマ法皇が決まった
ところでした。。。
新ローマ法王にベルゴリオ氏、初の南米出身者
上のニュースの写真に新法皇と一緒に写っている枢機卿の方々の衣装が、
ルネサンス当時とほとんど変わっていないところが、歴史とか伝統の
重みのようなものを感じさせられたりもします。
こうやって伝統を守っていく人達って、いろいろ大変ですよね。
私はそういうの、性格的に、きっと無理だろうなぁと思います(苦笑)
これからどうなっていくのでしょうね。。。ヴァチカンも。
見守っていたいと思います。
話はすっかり逸れてしまいましたが、昨日の展覧会の目玉作品は、
『大公の聖母』でした。
ラファエロは、背景をブラックに塗りつぶすということがほとんどなかったので、
これは後世、誰かの手によって修正されたのでは?という疑惑がずっと
長いことあったのだそうです。
最近(2010年)になってX線撮影の解析によって、やはりあとから手を
加えられていたことが判明したのですって。
それについては、こちらのブログに詳しいことが書かれていましたので、
ちょっと手抜きしてリンクさせていただきます^^;
大公の聖母の黒い背景
当時は、背景を黒く塗りつぶすことが流行っていたために、この絵も
そうした方が高く売れたからなのだろう。。。と、美術展の説明の中では
書かれていたりしましたが。。。
人の描いた絵を、あとから勝手に変えてしまうなんて。。。みたいに、、、
現代の文明社会に生きる私たちのほとんどは考えると思います。
けれども、私たちが「え~~?!」と思ってしまうようなことを、
当時の人々は無邪気に、あまり深いことを考えることもなく
やっていたのでしょう。。。
こういったびっくりなことは、歴史の中にはいろいろあったりします。
価値観って、、、やはり時代とともに変化していくものですね。。。

『大公の聖母』 1505年
行ってきました。


ラファエロ・サンツィオは、15世紀から16世紀、ルネッサンス真っただ中に
フィレンツェやローマで活躍した画家で、ダ・ヴィンチやミケランジェロを尊敬し、
彼らをお手本とした人なのですが。
その天才二人に比べると、ラファエロはもっと素直?というか、、、
あまり難しくないタイプだったようなイメージが私にはあります。

『自画像』 1506年
ラファエロとかダ・ヴィンチとか。。。
あの時代のイタリアの雰囲気、大好きです。。。
ラファエロは、この絵が有名ですよね。

『システィーナの聖母』1512-14年
この可愛らしいふたりの天使は、ラファエロのアトリエの近くに住んでいた
子供達がモデルとなっている、、、というお話を、以前どこかで聞いたことが
あります。
その子達は、ラファエロのアトリエを、窓からこうやって覗いていたのだとか。
可愛い

昨日の展覧会には、こちらの絵は残念ながら来ていませんでしたが。
ヨーロッパ系の芸術、、、といえば、なんとなく避けて通れないのは
イタリアフィレンツェの大富豪メディチ家だと思います。
ラファエロ、そしてダ・ヴィンチやミケランジェロが活躍した時代のイタリアといえば、
そのメディチ家がどうしても浮かんできてしまいます。
昨日、当時のそういった貴族の人々の衣装を見ていたら、バレエの
『ロミオとジュリエット』の衣装を思い出したりしました。
バレエもやはり、そのメディチ家と絡んできたりします。
このメディチ家や、あとはハプスブルク家。。。
こういった系のお話も、いつか機会があったらゆっくりと、
いろいろと書いていってみたいと思っています。
いつその時代にたどり着けるのかは、解りませんが(苦笑)
そしてラファエロといったら、やはりキリスト教に関連した絵。。。
というイメージがあったりしますよね。
昨日も、修道士や枢機卿の絵がいくつかあって。。。
私は、今のキリスト教界にはほとんど興味ないのですけれども、
中世とかルネッサンスの頃とか、その頃のキリスト教世界には、
だいぶ関心があったりします。
ヴァチカンの歴史に興味があるのですね、きっと。
枢機卿。。。と聞くと私はすぐに、チェーザレを。。。
ボルジア家の毒薬、カンタレラのことなどを思い出し、教会の黒歴史と
結びつけてしまったりするところもあるのですが。。。
教会、そして貴族たち、そして芸術。。。
まぁ、、、
その頃の教会は、闇真っ盛りの時代。。。ともいえるのかもしれませんね(苦笑)
現代でも、ちょうど、ヴァチカンでは新しくローマ法皇が決まった
ところでした。。。

上のニュースの写真に新法皇と一緒に写っている枢機卿の方々の衣装が、
ルネサンス当時とほとんど変わっていないところが、歴史とか伝統の
重みのようなものを感じさせられたりもします。
こうやって伝統を守っていく人達って、いろいろ大変ですよね。
私はそういうの、性格的に、きっと無理だろうなぁと思います(苦笑)
これからどうなっていくのでしょうね。。。ヴァチカンも。
見守っていたいと思います。
話はすっかり逸れてしまいましたが、昨日の展覧会の目玉作品は、
『大公の聖母』でした。
ラファエロは、背景をブラックに塗りつぶすということがほとんどなかったので、
これは後世、誰かの手によって修正されたのでは?という疑惑がずっと
長いことあったのだそうです。
最近(2010年)になってX線撮影の解析によって、やはりあとから手を
加えられていたことが判明したのですって。
それについては、こちらのブログに詳しいことが書かれていましたので、
ちょっと手抜きしてリンクさせていただきます^^;

当時は、背景を黒く塗りつぶすことが流行っていたために、この絵も
そうした方が高く売れたからなのだろう。。。と、美術展の説明の中では
書かれていたりしましたが。。。
人の描いた絵を、あとから勝手に変えてしまうなんて。。。みたいに、、、
現代の文明社会に生きる私たちのほとんどは考えると思います。
けれども、私たちが「え~~?!」と思ってしまうようなことを、
当時の人々は無邪気に、あまり深いことを考えることもなく
やっていたのでしょう。。。
こういったびっくりなことは、歴史の中にはいろいろあったりします。
価値観って、、、やはり時代とともに変化していくものですね。。。

『大公の聖母』 1505年
![]() | 世界最古の洞窟壁画 忘れられた夢の記憶 [DVD] (2012/12/21) ヴェルナー・ヘルツォーク(日本語吹替オダギリ・ジョー) 商品詳細を見る |
先日映画館で観てきました。
私が観たのは3Dではなくて35mmフィルムでの上映だったのですが、
そこは電車の線路のガード下にある、ものすごくレトロな味のある映画館で、
こんなマニアックな映画を観るにはもってこいの場所でした。
このブログを読んでいたお友達が、洞窟にも少し興味を持ってくれて、
それで洞窟のことを調べてみているうちに、ものすごくタイムリーにこの
映画が今、数日間の期間限定で上映していることを見つけてくれたのです。
それでさっそく、一緒に観に行ってきました。
映画の内容については、また追々に書いていこうかなと思うのですが、
この映画に使われている、音楽、、、どちらかというと「音」に近いのですが、
それがやけに印象に残ったので、YouTubeで探して聴いてみました。
素晴らしいです。。。
以前、ある作曲家の人が創ってくださった歌を歌った時のことを、
ふと思い出しました。
あの時もチェロを使ったのです。
チェロの響きと私の声(人間の声)の響きをミックスさせて、、、
そしてその歌の旋律は西洋のクラシック音楽の枠組みからは思いきり
外れているような感じで。。。
かと言って、民族音楽ともまた違うし。
そんな不思議な旋律と響きで、人を瞑想状態に誘うような。。。
そんな歌。。。
私は作曲のこととかはよく知らないので、それを言葉でうまく説明
出来ないのですが、この曲を聴いていたら、あの時の歌を思い出しました。
あ。。。そういえば。。。
あの時私は、洞窟で歌ったのだった。。。
人工の洞窟でしたが。。。
それを、より響かせるために。。。
洞窟壁画のことをいろいろと調べていると、やはりスペインや
フランス(特に南フランス)のことが気になってきたりします。
そうでなくてもスペインやフランス、更にはイタリアやベルギー、
そしてギリシャやエーゲ海の島々などなど。。。
ああいうところは、いつかは絶対に行きたかったのですが、
最近では、ヨーロッパの洞窟めぐりまでしたい感じがしてきて(笑)
あと、、、
これは実現できないかもしれませんが、ずっとやってみたいな。。。と
思っていたのが、スペインの「星の巡礼」でした。
サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路
私がこの巡礼のことを知ったのは、この本を読んだからです。
パウロ・コエーリョは『アルケミスト』で知られていますけれども、
私は実は、こちらのほうが、強烈に印象に残っていたりします。
もちろん、『アルケミスト』も大好きですが。
ただ、この『星の巡礼』というお話を読んだ時、なんだか強烈に
この巡礼地を旅してみたい気持ちになり、それ以来、、、
「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」
・・・という言葉を聞くたびに、ものすごい反応して、、、
そして、妙にドキドキしてしまう自分がいるのでした。
そんなわけで今回も、やはり洞窟関係で偶然、こんな映画を見つけたので、
即レンタルしてきて、早速観てみました。
とても素晴らしい映画でした。。。
素晴らしければ素晴らしいほど、私は言葉が出なくなる(苦笑)
ずっと手元に置いておきたくなってしまいました。
DVDの特典映像の中で、主演のマーティン・シーンさんがおっしゃっていた
言葉が、とても胸に響きました。
人生は、巡礼なのです。。。と。
「巡礼」と聞くと、宗教的なイメージがありますけれども、
決してそれだけではありませんよね。。。
巡礼とは、旅をすること。。。
そして「旅」は、、、様々な意味を持つメタファー的な言葉だったりもしますね。。。
この「巡礼(Pilgrimage)」というタイトルの詩が、WMの中にもあります。。。
それは、『グランド・ポータル』のCDについているリーフレットの
中表紙にひっそりと載せられているのですが、とても深い詩です。。。
そこには、三人の子供、、、仏教の僧侶のような様相をした子供達が、
砂の上を歩く、モノクロの写真があります。
後ろの景色は、砂で出来た山。。。
まるで托鉢僧のように見える子供達が踏みしめる、砂漠のような
砂の道に刻まれた模様からは、チベット僧達の創る砂曼荼羅を
彷彿とさせられます。。。
彼らが砂曼荼羅を創るのは、、、人生の「無常さ」を知るため。。。
そう聞いたことがあります。。。
これはその、三人の托鉢僧のように見える子供達が、、、
砂曼荼羅のように見える地で、巡礼の旅をしている光景なのでしょうか。。。
巡礼の旅。。。つまりそれは、生きることそのもの。。。
そこに描かれている詩を、ここに載せておきます。。。
Pilgrimage
When I heard your voice for the first time,
some ember that had outwitted time became a fire
and I knew your heart as my own.
And I had an image, indelible as the ink of India,
of a footbridge where peasants cross-over in pilgrimage
to some great and holy sprit.
And I turned to you, knowing you had waited for
the sound of a heartbeat so familiar it revealed your own,
and I said, “let me in so I may be fitted to your heart.”
And you, the open vessel of all I hold dear, smiled upon
this unbidden peasant and took me in.
フランス(特に南フランス)のことが気になってきたりします。
そうでなくてもスペインやフランス、更にはイタリアやベルギー、
そしてギリシャやエーゲ海の島々などなど。。。
ああいうところは、いつかは絶対に行きたかったのですが、
最近では、ヨーロッパの洞窟めぐりまでしたい感じがしてきて(笑)
あと、、、
これは実現できないかもしれませんが、ずっとやってみたいな。。。と
思っていたのが、スペインの「星の巡礼」でした。

私がこの巡礼のことを知ったのは、この本を読んだからです。
![]() | 星の巡礼 (角川文庫) (2013/12/09) パウロ・コエーリョ、山川 紘矢 他 商品詳細を見る |
パウロ・コエーリョは『アルケミスト』で知られていますけれども、
私は実は、こちらのほうが、強烈に印象に残っていたりします。
もちろん、『アルケミスト』も大好きですが。
ただ、この『星の巡礼』というお話を読んだ時、なんだか強烈に
この巡礼地を旅してみたい気持ちになり、それ以来、、、
「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」
・・・という言葉を聞くたびに、ものすごい反応して、、、
そして、妙にドキドキしてしまう自分がいるのでした。
そんなわけで今回も、やはり洞窟関係で偶然、こんな映画を見つけたので、
即レンタルしてきて、早速観てみました。
![]() | 星の旅人たち [DVD] (2012/11/02) マーティン・シーン、デボラ・カーラ・アンガー 他 商品詳細を見る |
とても素晴らしい映画でした。。。
素晴らしければ素晴らしいほど、私は言葉が出なくなる(苦笑)
ずっと手元に置いておきたくなってしまいました。
DVDの特典映像の中で、主演のマーティン・シーンさんがおっしゃっていた
言葉が、とても胸に響きました。
人生は、巡礼なのです。。。と。
「巡礼」と聞くと、宗教的なイメージがありますけれども、
決してそれだけではありませんよね。。。
巡礼とは、旅をすること。。。
そして「旅」は、、、様々な意味を持つメタファー的な言葉だったりもしますね。。。
この「巡礼(Pilgrimage)」というタイトルの詩が、WMの中にもあります。。。
それは、『グランド・ポータル』のCDについているリーフレットの
中表紙にひっそりと載せられているのですが、とても深い詩です。。。
そこには、三人の子供、、、仏教の僧侶のような様相をした子供達が、
砂の上を歩く、モノクロの写真があります。
後ろの景色は、砂で出来た山。。。
まるで托鉢僧のように見える子供達が踏みしめる、砂漠のような
砂の道に刻まれた模様からは、チベット僧達の創る砂曼荼羅を
彷彿とさせられます。。。
彼らが砂曼荼羅を創るのは、、、人生の「無常さ」を知るため。。。
そう聞いたことがあります。。。
これはその、三人の托鉢僧のように見える子供達が、、、
砂曼荼羅のように見える地で、巡礼の旅をしている光景なのでしょうか。。。
巡礼の旅。。。つまりそれは、生きることそのもの。。。
そこに描かれている詩を、ここに載せておきます。。。
Pilgrimage
When I heard your voice for the first time,
some ember that had outwitted time became a fire
and I knew your heart as my own.
And I had an image, indelible as the ink of India,
of a footbridge where peasants cross-over in pilgrimage
to some great and holy sprit.
And I turned to you, knowing you had waited for
the sound of a heartbeat so familiar it revealed your own,
and I said, “let me in so I may be fitted to your heart.”
And you, the open vessel of all I hold dear, smiled upon
this unbidden peasant and took me in.
次の声楽の発表会で、サラ・ブライトマンの「Time to say good-bye」を
歌うことにしました。
サラの歌は、完全にベルカントというよりも、クラシカル・クロスオーバーと
言われる、独自の歌い方なので、その彼女の歌を声楽の発表会で歌うのは
どうかなぁ。。。と思っていたのですが、先生が、全然OKだとおっしゃって
くださったので、この曲を選択しました。
サラ・ブライトマンの歌を、人前に出て歌っても恥ずかしくないくらいの
レベルになる!というのが、私の最初の目標でしたので、次の発表会で
自分の納得いく歌が披露できれば、それがクリアできることになります。
だからすごい頑張りたいし、すごい楽しみです、次の発表会☆
また、声楽の発表会の少しあとには、ヴォーカルレッスンの発表会も
あります。
こちらは、発表会というよりは、ライヴに近いかな。。。
場所もライヴハウスですし、演奏は今回は生バンド。
そこでも私は、サラの歌を歌うことにしました。
「The war is over」という曲です。
この歌は、カラオケにないのはもちろんなのですが、、、
一部男性パートがあり、しかもそれは(多分)アラビア語みたいなので、
普通はなかなか歌えないと思うのですが、先生なら歌えるだろうと
思ったので聞いてみたところ、こちらもまたOKを頂けました。
ですので、ずっと歌いたかったこの歌を、先生にヘルプしていただけて、
しかもバックでは生バンドで演奏していただけて。。。と。。。
こちらももう、涙が出てくるくらい楽しみです。
のどの調子もかなり復活してきたので、また痛めないように気をつけながら、
その日にむかって、練習していきたいと思います。
当日もそうですが、こうしてワクワク練習している期間というのもまた、
とても素敵な時間なのですよね。。。
歌うことにしました。
サラの歌は、完全にベルカントというよりも、クラシカル・クロスオーバーと
言われる、独自の歌い方なので、その彼女の歌を声楽の発表会で歌うのは
どうかなぁ。。。と思っていたのですが、先生が、全然OKだとおっしゃって
くださったので、この曲を選択しました。
サラ・ブライトマンの歌を、人前に出て歌っても恥ずかしくないくらいの
レベルになる!というのが、私の最初の目標でしたので、次の発表会で
自分の納得いく歌が披露できれば、それがクリアできることになります。
だからすごい頑張りたいし、すごい楽しみです、次の発表会☆
また、声楽の発表会の少しあとには、ヴォーカルレッスンの発表会も
あります。
こちらは、発表会というよりは、ライヴに近いかな。。。
場所もライヴハウスですし、演奏は今回は生バンド。
そこでも私は、サラの歌を歌うことにしました。
「The war is over」という曲です。
この歌は、カラオケにないのはもちろんなのですが、、、
一部男性パートがあり、しかもそれは(多分)アラビア語みたいなので、
普通はなかなか歌えないと思うのですが、先生なら歌えるだろうと
思ったので聞いてみたところ、こちらもまたOKを頂けました。
ですので、ずっと歌いたかったこの歌を、先生にヘルプしていただけて、
しかもバックでは生バンドで演奏していただけて。。。と。。。
こちらももう、涙が出てくるくらい楽しみです。
のどの調子もかなり復活してきたので、また痛めないように気をつけながら、
その日にむかって、練習していきたいと思います。
当日もそうですが、こうしてワクワク練習している期間というのもまた、
とても素敵な時間なのですよね。。。
| Home |