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ハプスブルグ家などいろいろ

 07,2012 23:45
 メモです。。。


 大陸のケルト

 ケルト人はおそらく青銅器時代に中部ヨーロッパに広がり、
 その後期から鉄器時代初期にかけて、ハルシュタット文化
 (紀元前1200年~紀元前500年)を発展させた。

 当時欧州の文明の中心地であったギリシャやエトルリアからの
 圧倒的な影響の下、ハルシュタット文化はラ・テーヌ文化
 (紀元前500年~紀元前200年)に発展する。

 ケルトの社会は鋭利な鉄製武器を身に付け、馬に引かれた戦車に
 乗った戦士階級に支配され、欧州各地に分立した。

 彼らは南欧の文明社会としきりに交易を行い、その武力によって
 傭兵として雇われることもあり、ギリシャ・ローマの文献に
 記録が残されている。

 紀元前400年頃にはマケドニアの金貨に影響されて、各地でケルト
 金貨を製造するようになった。

 また、ケルト人の一部はバルカン半島へ進出し、マケドニア、
 テッサリアなどを征服。ギリシャ人は彼らをガラティア人と呼んだ。

 紀元前3世紀に入ると、さらにダーダネルス海峡を経由して小アジアへ
 侵入し、現在のアンカラ付近を中心に小アジア各地を席巻した。

 やがて紀元前1世紀頃に入ると、各地のケルト人は他民族の支配下に
 入るようになる。ゲルマン人の圧迫を受けたケルト人は、西の
 フランスやスペインに移動し、紀元前1世紀にはローマの
 ガイウス・ユリウス・カエサルらによって征服される。

 カエサルの『ガリア戦記』はガリア(ゴール)のケルト社会に
 関する貴重な文献である。やがて500年にわたってローマ帝国の
 支配を受けたガリアのケルト人(フランス語ではゴール人)は、
 被支配層として俗ラテン語を話すようになり、ローマ文化に従い、
 中世にはゲルマン系のフランク人に吸収されフランス人に変質していく。



 ベルギー

 1337年、フランドル伯領の諸都市はイングランドの王エドワード3世の
 支援を受けて反乱を起こした。一時的に諸都市はイングランドとの
 通商や種々の特権を獲得することに成功するが、1381年には
 フランドル伯の反撃を受け、ブリュッヘが征服されてしまう。
 この結果フランドル地域はフランドル伯死後にブルゴーニュ公国に
 組み入れられることとなった。

 フィリップ豪胆公から始まるブルゴーニュ公国は、「飛び地」
 として獲得した豊かな産業を持つフランドル地方の経済力を
 背景として版図の拡大を図った。飛び地の解消を目指してフランス
 王国へと積極的な介入を見せたが、シャルル突進公の1477年、
 ナンシーの戦いにおいて敗北を喫すると逆にフランスからの侵略を
 受けることとなった。

 シャルル突進公の戦死を受けて、娘マリーはかねてより婚約していた
 ハプスブルク家のマクシミリアンに救援を要請し、結婚した。
 ここにブルゴーニュ公国は終焉を迎え、フランドル地方は
 ハプスブルク家の支配下に組み込まれることとなった。

 同家がスペイン系とオーストリア系に分かれるとスペイン領となった。
 16世紀にはスペインの支配に対して反乱 (八十年戦争) を起こし、
 ネーデルラント17州のうちユトレヒト同盟を結んだ北部7州は
 1648年のヴェストファーレン条約によってネーデルラント連邦共和国
 として正式に独立を承認されたが、南部諸州はスペインの支配下に留まった。
 この南ネーデルラントが現在のベルギー王国の起源である。



 ポリフォニー

 ポリフォニー(polyphony)とは、複数の異なる動きの
 声部(パート)が協和しあって進行する音楽のこと。
 ただ一つの声部しかない「モノフォニー」の対義語として、
 多声(部)音楽を意味する。

 音楽史上では中世西洋音楽期~ルネサンス期にかけてもっとも
 盛んに行われた。ただし、多声音楽そのものは西欧音楽・西方教会音楽の
 独創ではなく世界各地にみられるものであり、東方教会においても
 グルジア正教会は西方教会の音楽史とは別系統にありながら多声聖歌を
 導入していた。



 ハプスブルク家

 「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」
 の言葉が示すとおり、ハプスブルク家は婚姻によって所領を
 増やしていった。

 現在も、最後の皇帝カール1世の子孫は婚姻によりスペイン、
 ベルギー、ルクセンブルクの君主位継承権を保持しており、
 それによって将来一族が君主に返り咲く可能性はある。



 ウィーン少年合唱団

 ウィーン少年合唱団(Wiener Sängerknaben)は、1498年に
 神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世が、宮廷礼拝堂少年聖歌隊として
 創設した少年合唱団である。

 原型はインスブルックのヴィルテン少年合唱団で、マクシミリアン1世が
 ウィーンでの新宮廷礼拝堂少年聖歌隊設立の際に、ヴィルテン
 少年合唱団のメンバーをウィーンに連れてきたものである。

 宮廷少年聖歌隊の20人ほどの少年たちの主な任務は、宮廷音楽隊の
 一員として礼拝堂でのミサ曲の演奏にあった。



 スフォルツァ家

 スフォルツァ家(Sforza)は、15世紀~16世紀のイタリアにおいて
 ミラノなどを支配した家である。

 傭兵隊長上がり、と侮られることもあったが、宮廷に学者や
 芸術家を集め、学芸を保護し、ルネサンスのパトロンとして
 知られる。

 フランスの侵攻により、ミラノを追われる。(イタリア戦争の項を参照)
 その後、ハプスブルク家の支援を受け、イル・モーロの子が
 一時ミラノ公を継ぐ。名のスフォルツァとはフランチェスコの
 父であるムツィオ・アッテンドロの呼び名で、強制的な人物を意味する。



 双頭の鷲

 双頭の鷲(そうとうのわし、ギリシア語: Δικέφαλος αετός、
 ドイツ語: Doppeladler、英語: Double-headed eagle)とは、
 鷲の紋章の一種で、頭を2つ持つ鷲の紋章。

 「双頭の鷲」自体は古来より存在する紋章で、紀元前20世紀から
 7世紀の間のシュメール文明や、現在のトルコ地域のヒッタイト
 でも使用された。また11-12世紀のセルジューク朝でも使用された。



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